2016年(平成28年)時点での人口は2,917人である[3]。ソ連が実効支配を始めて以降の集落は大きく分けて二か所あり、最大集落である斜古丹(ロシア語地名:マロクリリスク(Малокурильск, Malokurilsk=「小千島の町」の意))と、穴澗(あなま ロシア語地名:クラバザヴォーツク(Крабозаводск, Krabozavodsk=「カニ工場の町」の意))である。二か所とも島北側沿岸の湾奥に形成されており、マロクリリスクの人口は1,850人[4]、クラバザヴォーツクの人口は950人となっている(2016年(平成28年))[4]。また、それら以外の斜古丹の西側の入江奥深くにあった集落(能登呂(のとろ)、切通(きりとうし)、相見崎(ヨコネモシリ)、チボイ地区など)は、すべて廃村となった。2017年にロシア政府によって島の全域がロシアの経済特区に指定された。関税を非関税にする措置、法人税の3年間の非課税措置の導入が主な内容である。
なお、2016年(平成28年)3月31日現在の日本人の元居住者の人数は360人である[5]。
歴史戦前の色丹神社。クジラの顎の骨が鳥居に使われている。色丹島の風景(1980年)穴澗集落の遠景(2011年)色丹島の中心集落である斜古丹(2015年)
1869年(明治2年)9月20日 - 北海道根室国花咲郡の一部となり、開拓使の管轄となる。
1870年1月11日(明治2年12月10日) - 増上寺の寺社領となる[6](北海道の分領支配)。
1870年(明治3年)11月3日 - 開拓使の管轄に戻される。
1870年(明治3年)11月8日 - 徳島藩筆頭家老である稲田邦植の領地となる[7]。
1871年(明治4年)10月4日 - 廃藩置県により、開拓使の管轄に戻される。
1882年(明治15年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
1884年(明治17年)7月11日 - 当時無人島だった色丹島に、占守郡の千島アイヌ91人を定住させ、斜古丹村が置かれる[8]。(『千島巡航日記』)。ただし、慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口が激減した。
1885年(明治18年)1月6日 - 根室国花咲郡から、千島国色丹郡[9]斜古丹村の所属となり、斜古丹戸長役場が置かれる。
1886年(明治19年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁の管轄となる。
1892年(明治25年) - 東北地方や北陸地方からの移住がはじまり[1]、斜古丹に小学校が開設される[10]。
1914年(大正3年) - 捕鯨会社が相次いで進出(土佐捕鯨株式会社、2年後に東洋捕鯨株式会社)する[2]。
1927年(昭和2年) - 基幹道路(斜古丹?能登呂線24km、斜古丹?稲茂尻線9km)が開通する。