色の革命
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イラクの「紫の革命」という名称は米国の保守派論客の間で使われていたが、その後アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュが2005年のイラクにおける制憲議会選挙の実施を「イラク戦争の成果」「イラクにおける民主主義の到来」とし、オレンジ革命やバラ革命になぞらえる目的で用いた。しかしイラクやアメリカ、またそのほかの地域においても紫の革命という表現は広まってはいない。名称の由来は不正な多重投票を防止するために投票者の人差し指に紫色のインクがつけられたことによるものである。一部の共和党議員も、イラク国民への連帯を表すため、指に紫のインクを付けた。
青い革命詳細は「青い革命」を参照

青い革命とは、2005年3月に始まったクウェートにおける女性参政権を求めるデモを指す言葉として、一部のクウェート人の間で用いられている[2]。同年5月、クウェート政府はその要求を受け入れ、2007年の議会選挙において女性に対して投票権を付与することを決定した[3]。ただしこの事例では体制そのものの変革を求めるものではなかったため、色の革命として扱われることはない。
ジャスミン革命詳細は「ジャスミン革命」を参照

ジャスミン革命とは、2010年年末から2011年にかけて、チュニジアで起こった失業と困窮のあまりに野菜や果物を街頭で販売していた青年が、当局の取り締まりに遭い、それに抗議して焼身自殺したことが発端となり、全土でデモが拡大し、ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命した一連の出来事を指す。
影響した要因
反共産党独裁革命

色の革命について、1980年代から1990年代に中・東欧で起こった一連の革命の影響、とくに1989年のプラハでのビロード革命が引き合いに出されることが多い。主にプラハ・カレル大学から集まった学生による暴力を伴わないデモ活動は警察当局に取り締まられたが、やがてチェコスロヴァキアの共産党独裁体制の崩壊につながった。

非暴力的である花のイメージが用いられる由来となった起こりはさらに古く、1970年代中ごろのポルトガルにおけるカーネーション革命まで遡る。
学生運動

学生運動のさきがけとなったのはセルビアのオトポール! (セルビア語で「抵抗!」の意) で、この団体は1998年にベオグラード大学で設立され、コソヴォ紛争中はミロシェヴィッチに対する抗議運動を展開した。そのメンバーの多くは警察に身柄を拘束され、あるいは取り締まりを受けたが、2000年9月の大統領選挙では「ゴトブジェ」運動を展開し国民のミロシェヴィッチに対する反発をあおり、ミロシェヴィッチを破る結果にいたった。

オトポール! のメンバーはグルジアのクマラやウクライナのポラ、ベラルーシのジュブル(ベラルーシ語ヨーロッパバイソンの意)、アルバニアのムジャフト!(アルバニア語で「もうたくさんだ!」の意)に対して刺激を与え、また指導を行っている。これらの団体は、自身の行動がジーン・シャープの著書で提唱、解説されている非暴力抵抗となるよう計画を十分に練り、細心の注意を払っている[4]。学生団体によって組織された大規模な抗議活動者はセルビア、グルジア、ウクライナにおける革命の成功には欠かすことのできない要素であり、この群集での色彩や独裁指導者に反発するさいの非難交じりのユーモアは顕著なものであった。
ソロス財団とアメリカの影響

色の革命について、欧米の利益を確保するために革命を支援したり、または革命自体を企図しているなどとして、ジョージ・ソロスが興したオープン・ソサエティ財団(かつてはオープン・ソサエティ協会とされていた、いわゆるソロス財団)やアメリカ合衆国が非難の対象となることがある。特筆されるものとして、オレンジ革命の後に中央アジアのいくつかの国がオープン・ソサエティ協会(Open Society Institute:OSI)にさまざまな形で圧力を加えている。ウズベキスタンではOSIの支部に対して強制閉鎖が実施されたり、またタジキスタンでは国営メディアによりOSIタジキスタンが汚職や癒着に関与しているとして非難されている[5]

アメリカ政府の関与を示す証拠として、アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)および国際連合開発計画がFreenetの構築を支援していることがあげられており、Freenetは革命に関連する国の最低でも1国以上でインターネットの大部分を構成しており、例えば実際に色の革命が起こったキルギスではアメリカが支援したFreenetが構築されている。更にオレンジ革命はジョン・マケインが幹部を務めた同名NGOが、背後で糸を引いていた事が確認されている。

イギリスの新聞・ガーディアンはUSAID、全米民主主義基金、国際共和協会(IRI)、全米民主国際研究所(NDI)、フリーダム・ハウスの直接の関与を報じている[6]。なおこれらの機関のうちフリーダム・ハウス以外はアメリカ連邦政府予算が拠出されているが、この5つの機関のウェブサイト上ではガーディアンの報道と反する情報が掲載されている。
他国の反応および関連する動き
アゼルバイジャン

2005年中ごろにアゼルバイジャンでは数多くの運動が起こり、これらはグルジアやウクライナでの事例に刺激されたものである。青年団体Yox!(アゼルバイジャン語で No! の意)は政府の汚職に対峙する声明を発表している。Yox!の指導者はポラやクマラとは異なり、政権交代にとどまらず、アゼルバイジャンの統治制度そのものを変革させる意思を述べている。Yox!では緑を自らの運動の色として選択している[7]

アゼルバイジャンでの色の革命に関する活動を牽引しているのはイェニ・フェキル(「新思想」の意)で、野党アザドリグ(「自由」の意)と密接な関係を持つ学生団体である。マガム(「今こそそのときだ」の意)やダルガ(「波」の意)といった団体と協調して、イェニ・フェキルはグルジアやウクライナにおける色の革命の手法を意図的に多く取り入れており、ウクライナの革命の象徴であったオレンジ色を使うことも行っている[8][9]

2005年11月、反政府団体が市中を行進し、オレンジ色の旗や幟を掲げながら直近の選挙における政府の腐敗に抗議を唱えた。ところが同月26日アゼルバイジャンでの色の革命は警察が鎮圧に乗り出し、多くの参加者が負傷、催涙ガスや放水銃が使用された結果、活動は頓挫した[10]
ベラルーシ

アレクサンドル・ルカシェンコ政権に対する反対活動は学生団体ジュブルを中心に数多く存在する。2005年3月25日に一部の団体の活動が過去最大の規模となり、キルギスでの革命にならって行動すると宣言し、およそ1000人の市民がこれに加わった。しかし警察はこの行動に対して厳しく対処し、反体制派の指導者ミハイル・マリニッチを含む30人以上が逮捕された。

そのおよそ1年後の2006年3月19日、さらに規模の大きい反対活動が大統領選挙直後に行われた。大統領選挙の公式の結果はルカシェンコが83%を得票したとしているが、反体制派では不正や有権者に対する脅迫があったとし、外国政府も選挙に対する非難を寄せている。その翌週、ミンスクの10月広場で反対派がルカシェンコの辞任と対立候補だったアラクサンドル・ミリンケヴィチの就任、改めて公正な選挙の実施を求めてキャンプを張り、多いときで群集は30,000人に達した。

当初反体制派では白・赤・白の旧国旗をシンボルとして使用していた。この動きは隣国ウクライナにおいて重要な関連があり、オレンジ革命においてキエフでも白・赤・白の旗が掲げられているのが見られている。2006年における反対派の活動は「ジーンズ革命」や「デニム革命」といわれ[11]、青いジーンズが自由のシンボルと考えられており、活動参加者はジーンズを裁断してリボンにし、市内でそれを掲げていた。ジーンズ革命という言葉を作り出したのはジュブルであるとされている。

ルカシェンコはかつて、「ベラルーシではピンクだの、オレンジだの、バナナだのといった革命はありえない」と述べており、近年においても、「西側諸国はベラルーシではオレンジのようなものとして、大したことではないが、青だのコーンフラワー・ブルーだのといった革命が準備されているという。そんな青い革命などベラルーシには不要だ」と話している。2005年4月19日には「こんな色の革命はまさしく単なる強盗行為だ」としている。

2020年8月9日の大統領選挙がきっかけとして2020年-2021年ベラルーシ反政府デモが起きたが、これはカラー革命の未遂例としてあげられているが、反体制運動家のスヴェトラーナ・チハノフスカヤリトアニアに亡命し西側諸国の支援による反政府活動を継続している。
モルドヴァ

モルドヴァでの反体制活動は、ウクライナのオレンジ革命と似たような経緯をたどっており、2005年の議会選挙ではキリスト教民主人民党は自党の色としてオレンジを採用し、これはウクライナでの事件を受けたものと見られている。

この事例に対しては、モルドヴァがブドウの大産地であることから「ブドウ革命」という名称をつける案が挙がっている。しかし政権側が選挙に勝利したことでこの革命は実現に至らなかった。これにはいくつかの原因が挙げられており、反体制派が分裂状態であったことや政権側が親ヨーロッパ・反ロシアの立場をとるなどして、反体制側がこれらの分野をきっかけに協調していたかもしれない政治的立場の者を多く取り込んでいたことがある。


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