1898年(明治31年)になると、船舶無線によるビジネスが小規模ながらもはじめられた。
翌1898年7月、アイルランドで開催されたヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express
)から受注し、蒸気船フライング・ハントレス号(Flying Huntress)号に送信機を設置して実況中継した。これがマルコーニ社の初受注だった[3]。さらに新聞でその評判を知ったイギリスのビクトリア女王はマルコーニを呼びつけ、王室ヨットで病気療養中だった皇太子の様子を知るために無線を導入した。8月3日より16日間で王室ヨット・オズボーン号(The Royal Yacht Osbourne)とワイト島のオズボーン・ハウス(王室別荘)間で計150回の通信が交わされている。これが二番目の受注となった[4]。1900年(明治33年)2月にオランダとの国境にあるドイツのボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船無線局、北ドイツ・ロイド汽船会社の大西洋航路客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に船舶無線局を設置して公衆通信(電報)の試験を始めた[5][6]。
1900年4月25日、マルコーニは海上公衆通信の商用化を専業とする、マルコーニ国際海洋通信会社(Marconi International Marine Communication Company)を分社させた。そして1900年5月15日より上記3つの無線施設を使って世界初の公衆通信(電報サービス)をスタートさせた[7][8]。恒久施設による海上公衆通信のビジネス化はこうして達成されたのである。 1904年(明治37年)1月7日、マルコーニ国際海洋通信会社が遭難信号CQDを制定したが[9]、これは同社の社内符号であり他の無線会社には関係しない。1905年(明治38年)4月1日、ドイツ無線電信条例が施行され、その第4条に遭難信号SOSが盛り込まれた[10]。 1906年(明治39年)11月3日、第一回国際無線電信会議[11]において世界共通の遭難信号SOSが採択され、1908年(明治41年)7月1日に発効した。しかし他社とは交信しない方針のマルコーニ社は自社の社内符号CQDを1912年(明治45年)の、タイタニック号沈没事故まで使い続けた。ホワイト・スター・ライン所属のタイタニック号に船舶局を開設していたのはマルコーニ国際海洋通信会社だった。 1909年(明治42年)8月11日、クライド・ライン
船舶用の遭難信号を制定
初のSOS
また前述のタイタニック号の事故の際には、同号に開設されたマルコーニ国際海洋通信会社の船舶局(呼出符号MGY)が当初CQDを使ったが、途中より国際的な遭難信号SOSも併用した[14]。 日本における船舶無線の利用に目をつけたのは海軍である。1899年(明治32年)5月12日付でイギリス公使館付武官であった川島令次郎は無線電信の研究を喚起する意見書を海軍省に送った。さらにアメリカに留学していた海軍大尉秋山真之も同年6月21日付意見書で海軍省軍事課長宛に清国および韓国における無線電信施設設置権を我が国が獲得しておくべきとの具申を行っている。この時は結局具体的にはまとまらなかったが、その後1900年(明治33年)2月9日に海軍に無線電信調査委員会が設置された。そして船に搭載して通信試験を行い1901年(明治34年)に試験完了し三四式無線電信機(年号より三四)と称することになった[15]。 三四式無線電信機のインダクションコイルは高価な輸入品だった。1903年(明治36年)、安中電機製作所がインダクションコイルの国産化に成功し、三四式の改良機となる三六式無線電信機が開発された。海軍は三六式無線電信機を急造し、海軍の15艦に装備できたため、1905年(明治38年)5月の日本海海戦(日露戦争)において海軍の無電(三六式無線電信機および一部は三四式無線電信機)が大活躍したのである[15]。 海軍を中心とした我が国の無線機開発とその実用化は見事な成果を収めた。戦争に備えて、これまで逓信省の無線実験は中止されていたが、それは海軍省の無線に混信を与えないためである。
日本での歴史
三六式無線電信機
海上公衆通信の開始
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