舟橋聖一
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他方で、自らが中心となって作家連合の「伽羅(キアラ)の会」(きゃらのかい)を結成し、『風景』を創刊[2]。社会的・文壇的活動も活発で、文部省国語審議委員として戦後国語国字問題に取り組んだり、日本文芸家協会理事長に選出されて著作権問題の解決に尽力したりした。
来歴

東京市本所区横網町(現:東京都墨田区横網)に生れる[3]キリストの降誕日にちなんで「聖一」と名づけられた。父は東京帝国大学工科助教授の了助、母はさわ子[3]。弟3人と妹ひとりがいた。母方の祖父が財界で成功した富豪であったことから、目白(下落合)の高台に一族の複数の家が建ち並び、物心ともに贅沢な環境で育つ。生後100日頃に不注意から父の百日咳がうつり、これが遠因となって晩年に至るまで喘息に苦しむこととなる。1909年(明治42年)に父がドイツへ留学したため、神奈川県腰越長山の母の実家の別荘に転居した。このころから祖母に連れられ、芝居見物をしていた。

1911年(明治44年)に正修尋常高等小学校(現:鎌倉市立腰越小学校)に入学したが、父が戻り教授になったので東京市本郷区弥生町(現:東京都文京区弥生)に移り、入学後5ヶ月で東京市誠之尋常小学校(現:文京区立誠之小学校)に転校。さらに1913年(大正2年)に東京府豊多摩郡落合村(現:東京都新宿区)に移ったため、私立高千穂小学校(現在は廃校)に転校した。高千穂中学校(現在は廃校)卒業後、水戸高等学校(現:茨城大学文理学部)に進学し、土方定一片柳真吉らと知り合った。この頃から舟津 慶之輔(ふなづ よしのすけ)の筆名で短歌・戯曲を発表し、同人雑誌『歩行者』に参加。また、小山内薫の門下生となった。

1925年(大正14年)に高校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に進んだ。四代目河原崎長十郎を中心に、池谷信三郎村山知義らとともに劇団「心座」を結成し、また文芸部雑誌『朱門』の同人となり、阿部知二らを知る。『朱門』創刊号に戯曲『信吉の幻覚』を発表、翌年に戯曲『痼疾者』が上演され、上司小剣秋田雨雀に認められた。この年の7月に佐藤百寿と結婚、10月には『新潮』に『白い腕』を発表している。1928年(昭和3年)、『文芸都市』の同人となり、阿部知二、井伏鱒二梶井基次郎外村繁らと「新人クラブ」を結成。翌年「心座」を退き、阿部、井伏らと『新文芸都市』を創刊。このほかにも、今日出海らと「蝙蝠座」を、小林秀雄や井伏鱒二らと「新興芸術派クラブ」を、飯塚友一郎らと「演劇学会」を結成して盛んに文芸活動に身を投じる一方、『あらくれ会』同人になり徳田秋声の門下生となっている。この間に拓殖大学明治大学で講師を務めた。

1933年(昭和8年)に創刊した『行動』に発表した『ダイヴィング』は、行動主義、能動精神運動を起こして大きな反響を呼ぶ。この頃小林の勧めで『文學界』同人となり、さらに『行動文学』を創刊。1938年(昭和13年)に『文學界』に発表した『木石』で認められ、以後『新風平家物語』『北村透谷』『女の手』などを書いた。

戦後は『小説新潮』に掲載した『雪夫人絵図』をはじめとする風俗小説で人気を得、1953年(昭和28年)には『花の生涯』を発表。幕末大老井伊直弼を中心とした開国前後の動乱期の人間模様を描いたこの作品は、NHK大河ドラマの第一作となった。また1999年平成11年)にも『新・忠臣蔵』を原作とした『元禄繚乱』がNHK大河ドラマで放送された。多磨霊園にある舟橋家の墓

1966年(昭和41年)より眼病が悪化し、晩年は両眼ともにほぼ失明状態に陥ったが口述筆記で執筆活動を継続。1970年(昭和45年)より平凡社太陽』に自らライフワークと位置付けた『源氏物語』の連載と、読売新聞に『太閤秀吉』の連載を開始したが、1976年(昭和51年)完結を前に日本医科大学付属病院で急死。この両作を含めた数作が未完の絶筆となった。この日は選考委員を務めていた芥川賞の第74回選考会の前日だった[4]。戒名は文篤院殿青海秀聖居士[5]
スポーツとのかかわり

舟橋は菊池寛吉川英治吉屋信子らと共に文士馬主でも有名であり、主な所有馬に中山大障碍勝ち馬のモモタロウがいる。時に府中中山での競馬施行時には開催日程を皆勤するほど熱心で、府中ではイギリス風の洋服にハンチング、一転して中山では和服姿と使い分けたりする洒落者だった[6]

また幼い頃からの相撲好きでも知られる。舟橋の著作である『相撲記』(1943年)では、講演旅行の帰りに大阪で途中下車して福島公園での大相撲巡業に顔を出し、気の抜けた花相撲をみながら「尚この濛々たる俗情を愛せずにいられない我が身の因果」と記している。横綱審議委員会の委員を創設時から死去時まで務め、1969年からは委員長に任じられた。横審委員として国技館に日参し、若乃花朝潮横綱昇進に反対意見を出し、北の富士玉乃島の横綱同時昇進の際には八百長の存在を指摘する[7]等、日本相撲協会にとっては厳しい意見をよく出した。
家族

母方祖父・
近藤陸三郎 (1857?1917) - 古河財閥最高幹部。工部大学校鉱山科卒業後工部省に入り、古河鉱業に転籍、足尾銅山所長を経て古河合名会社理事長、足尾鉄道社長などを務めた。足尾鉱山事件初期の責任者。自邸の一部6000坪は売却後、目黒雅叙園となった。原敬とは別邸が隣同士で親しかった。[8][9]

父・舟橋了助(1877年生) - 東京帝国大学工科教授。養賢堂 (仙台藩)教師の子に生まれ、東京帝大採鉱冶金科に学び、同科が足尾鉱山の防毒工事の検査に関わった関係で陸三郎と知り合う。同大学院卒業後、同大助教授となり文部省派遣で欧州留学、1901年帰国、1902年教授に昇進し翌年工学博士号取得、地質学の権威として活躍したが、1924年に部下の不祥事(研究室の不正と言われる)により48歳で退官、地所を担保にした借金と恩給で余生を送った。[10][11]

母・さわ(1886年生) - 陸三郎の長女。

弟・舟橋和郎

妻・百寿 - 父方のいとこ。了助の兄である父親は銀行の副頭取。聖一の女癖の悪さを案じた両親の反対の中、1926年に21歳同士で学生結婚。

娘・舟橋美香子 - 『父のいる遠景』(1981年、講談社)で聖一の妻妾同居生活などを明かした。

母方叔母・よね - 陸三郎の二女。 南満州鉄道幹部・木部守一の妻。守一は学習院大学卒業後外務省に入り、長春領事などを経て古河に入社し、満鉄に転じた[12][13]

母方叔父・近藤真一 - 陸三郎の長男。薬品貿易商、球磨川電気常務。妻は鮎川義介の妹。[14]


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