舟橋は菊池寛、吉川英治、吉屋信子らと共に文士馬主でも有名であり、主な所有馬に中山大障碍勝ち馬のモモタロウがいる。時に府中・中山での競馬施行時には開催日程を皆勤するほど熱心で、府中ではイギリス風の洋服にハンチング、一転して中山では和服姿と使い分けたりする洒落者だった[6]。
また幼い頃からの相撲好きでも知られる。舟橋の著作である『相撲記』(1943年)では、講演旅行の帰りに大阪で途中下車して福島公園での大相撲巡業に顔を出し、気の抜けた花相撲をみながら「尚この濛々たる俗情を愛せずにいられない我が身の因果」と記している。横綱審議委員会の委員を創設時から死去時まで務め、1969年からは委員長に任じられた。横審委員として国技館に日参し、若乃花、朝潮の横綱昇進に反対意見を出し、北の富士、玉乃島の横綱同時昇進の際には八百長の存在を指摘する[7]等、日本相撲協会にとっては厳しい意見をよく出した。
家族
母方祖父・近藤陸三郎 (1857?1917) - 古河財閥最高幹部。工部大学校鉱山科卒業後工部省に入り、古河鉱業に転籍、足尾銅山所長を経て古河合名会社理事長、足尾鉄道社長などを務めた。足尾鉱山事件初期の責任者。自邸の一部6000坪は売却後、目黒雅叙園となった。原敬とは別邸が隣同士で親しかった。[8][9]
父・舟橋了助(1877年生) - 東京帝国大学工科教授。養賢堂 (仙台藩)教師の子に生まれ、東京帝大採鉱冶金科に学び、同科が足尾鉱山の防毒工事の検査に関わった関係で陸三郎と知り合う。同大学院卒業後、同大助教授となり文部省派遣で欧州留学、1901年帰国、1902年教授に昇進し翌年工学博士号取得、地質学の権威として活躍したが、1924年に部下の不祥事(研究室の不正と言われる)により48歳で退官、地所を担保にした借金と恩給で余生を送った。[10][11]
母・さわ(1886年生) - 陸三郎の長女。
弟・舟橋和郎
妻・百寿 - 父方のいとこ。了助の兄である父親は銀行の副頭取。聖一の女癖の悪さを案じた両親の反対の中、1926年に21歳同士で学生結婚。
娘・舟橋美香子 - 『父のいる遠景』(1981年、講談社)で聖一の妻妾同居生活などを明かした。
母方叔母・よね - 陸三郎の二女。 南満州鉄道幹部・木部守一の妻。守一は学習院大学卒業後外務省に入り、長春領事などを経て古河に入社し、満鉄に転じた[12][13]
母方叔父・近藤真一 - 陸三郎の長男。薬品貿易商、球磨川電気常務。妻は鮎川義介の妹。[14]
年譜
1904年(明治37年) 東京市で誕生。
1928年(昭和3年) 東京帝国大学文学部国文科卒業。
1938年(昭和13年) 明治大学教授。
1948年(昭和23年) 日本文芸家協会理事長。
1949年(昭和24年) 芥川賞選考委員。
1950年(昭和25年) 文部省 国語審議委員。
1964年(昭和39年) 『ある女の遠景』毎日芸術賞受賞、『花の生涯』彦根市名誉市民表彰。
1966年(昭和41年) 日本芸術院会員。
1967年(昭和42年) 『好きな女の胸飾り』野間文芸賞受賞。
1969年(昭和44年) 横綱審議委員長。
1975年(昭和50年) 文化功労者。
1976年(昭和51年) 急性心筋梗塞により死亡。(享年71)
2007年(平成19年) 舟橋聖一文学賞創設(彦根市)。
作品一覧
『ダイヴィング』(1935年、紀伊國屋書店)
『岩野泡鳴伝』(1938年、青木書店。のちに、1971年、角川書店)
『新胎・木石』(1938年12月、青木書店) - 「木石」(ぼくせき) - 1938年10月「文学界」。細菌学研究所長二桐博士と、25年間勤務する女性助手追川初と、初の娘ということになっているじつは前所長R博士と某夫人との間の不貞の子襟子。初は亡きR博士を思い続け、襟子は二桐博士に恋するようになる。初は、自分の二の舞をさせまいと襟子をとがめ叱る。一見木石のようで、人情も解さないように見える。しかし実験用のネズミにかまれて細菌が伝染し、やがて死ぬが、遺言で二桐博士に解剖を依頼し、処女であることを証明し、じつは非凡な人情に生き抜いた女性であることが知れる。(1940年に松竹で映画化)
『川音』(1940年、実業之日本社)
『新風平家物語』(1940年、万里閣)
『愛児煩悩』(1940年、万里閣)
『清流』(1941年、人文書院)
『徳田秋声』(1941年、弘文堂)
『北村透谷』(1942年、中央公論社)
『女の手』(1942年、講談社)
『随筆日本文学』(1942年、秩父書院)
『りつ女年譜』(1942年、中央公論社)
『牡丹は咲きぬ』(1943年、紀元社)
『悉皆屋康吉』(1945年、創元社)
『散り散らず』(1945年、生活社)
『老茄子』(1947年、文學界社)
『無風』(1948年、改造社)
『雪夫人絵図』(1948年、新潮社)(1950年新東宝で映画化され、1968年に東映で映画が製作されるもお蔵入り。1975年日活系列で公開され日の目を見た)
『花の素顔』(1949年、朝日新聞社)(1949年松竹が映画化)
『芸者小夏』(1952年、新潮社)(1954年、1955年<『芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏』>東宝が、1965年<『帯をとく夏子』>大映が映画化、1963年TBSがテレビドラマ化)
『花の生涯』(1953年、新潮社)(1953年<『花の生涯 彦根篇 江戸篇』>松竹が映画化、1963年<『花の生涯』>NHKが大河ドラマで、1974年<『花の生涯』>日本テレビが、1988年<『花の生涯 井伊大老と桜田門』>テレビ東京が新春ワイド時代劇でテレビドラマ化)
『女めくら双紙』(1954年、角川書店)(1965年<『女めくら物語』>、1968年大映が映画化)
『絵島生島』(1954?55年、新潮社)(1955年松竹が映画化、1971年東京12チャンネルがテレビドラマ化)
『海の百万石』(1955?56年、講談社)(1956年東映が映画化)
『白い魔魚』(1956年、新潮社)(1956年松竹が映画化)
『愛の濃淡』(1957年、角川書店)(1959年松竹が映画化)
『朱の花粉』(1958-1960年、講談社)(1960年松竹が映画化)
『新・忠臣蔵』(1957?61年、毎日新聞社)(1999年<『元禄繚乱』>NHKが大河ドラマでテレビドラマ化)
『霧ある情事』(1959年、新潮社)(1959年松竹が映画化)
『白子屋駒子』(1960?61年、角川書店)(1960年大映が映画化)
『夢でありたい』(1961年、新潮社)(1962年大映が映画化)
『ある女の遠景』(1963年、講談社)(本作で第5回(1964年)毎日芸術賞を受賞する)
『モンローのような女』(1964年、文藝春秋新社)(1964年松竹が映画化)
『寝顔』(1964?65年、新潮社)
『徳川千姫』(1967?68年、人物往来社)
『好きな女の胸飾り』(1967年、講談社)
『花實の繪』(1971年、毎日新聞社)
『滝壺』(1973年、新潮社)
『白の波間』(1976年、中央公論社)
『源氏物語』(1970?76年、未完、平凡社)桐壺?幻
『太閤秀吉』(1970?76年、未完、読売新聞社)
『谷崎潤一郎と好色論 日本文学の伝統』(2015年、幻戯書房)
『文藝的な自伝的な』(2015年、幻戯書房)
映像化作品
映画
木石(1940年、松竹、五所平之助 監督)