舞台
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慶長十年代前半(1606年 - 1609年ごろ)の作とみられる洛中洛外図屏風京都国立博物館[17])に見える能舞台においても、屋根は切妻造・板葺で、後座はあるが地謡座はなく、鏡板も床下の幕板もない。寛永14年(1637年)に竣工した江戸城本丸表大広間上段の正面に造営された能舞台によって、地謡座や鏡板を備えた様式が確立したとみられる[18]
歌舞伎舞台歌舞伎の始祖とされる出雲阿国は能舞台を用いた。江戸時代後期の中村座。附舞台によって舞台面積は拡張されたが破風と大臣柱は残存している。

歌舞伎の始祖とされる出雲阿国は、かぶき踊りの舞台として能舞台を使用したことが、『当代記』の記述や同時代の絵画から分かる[19]。草創期においては能舞台と同様の構造だった歌舞伎舞台は、徐々に今あるような要素が加えられていく。

芝居小屋は元和年間(1615年 - 1624年)に京都で7箇所が公許されたのに始まり、大阪では慶安5年(1652年)に3箇所が公許された。江戸では寛永元年(1624年)に猿若勘三郎が中橋南地(現・京橋)に猿若座(のちの中村座)を開いたのが嚆矢であり、山村座市村座森田座などが勃興し、幕府はこれら芝居小屋を堺町(のち堺町・葺屋町に分割)と木挽町に集める政策をとった[20]。「江戸三座」も参照

舞台装置の変化としては、まず万治年間(1658年 - 1661年)に橋掛の若松が消失した後、寛文4年(1664年)市村座で二番続きの狂言「今川忍び車」を上演した際に初めて引幕が使用された[21][22][23]花道は寛文末 - 延宝年間(1670年代前後)に誕生したとされるが、当初は仮設のもので、常設の立派なものが設置されるのは享保元文年間(1716年 - 1741年)と考えられている[21]。享保・元文年間には舞台面積も増大し、本舞台の前に附舞台が設置されるに至った。享保9年(1724年)中村座の舞台規模は間口6間半奥行5間だった[21][24]。能舞台の痕跡として江戸時代後期まで残っていた破風と大臣柱も、寛政8年(1796年)に都座で撤去されたのを皮切りに順次撤去が進んだ[25][26][27][28]

また廻り舞台などの可動式の舞台装置も発明され、発展を遂げ他の芸能の舞台にも影響を与えた。
著名な舞台厳島神社高舞台
国宝指定を受けているもの

厳島神社 高舞台・平舞台(厳島神社 本社祓殿 の附として)

西本願寺 北能舞台

石清水八幡宮本社 幣殿及び舞殿

重要文化財指定を受けているもの

麻績神明宮 舞台

四天王寺 石舞台

住吉大社 石舞台

壬生寺 大念仏堂

能舞台

厳島神社 能舞台

白山神社 能舞台

西本願寺 南能舞台

東本願寺 能舞台

碧雲荘 能舞台(野村碧雲荘 大玄関及び能舞台 として)

春日神社 能舞台

沼名前神社 能舞台

神楽殿

保呂羽山波宇志別神社 神楽殿

飯野八幡宮 神楽殿

日光東照宮 神楽殿

榛名神社 神楽殿

北口本宮冨士浅間神社 神楽殿

麻績神明宮 神楽殿

諏訪大社上社本宮 神楽殿

諏訪大社下社秋宮 神楽殿

南宮神社 高舞殿

久能山東照宮 神楽殿

神部神社浅間神社 舞殿

賀茂御祖神社 舞殿

賀茂別雷神社 舞殿(橋殿)

八坂神社 舞殿

春日大社摂社若宮神社 細殿及び神楽殿

芝居小屋

康楽館

旧呉服座


旧金毘羅大芝居

内子座

八千代座

重要有形民俗文化財指定を受けているもの
農村歌舞伎舞台

大桃の舞台

檜枝岐の舞台

上三原田の歌舞伎舞台

旧船越の舞台 - 日本民家園

各務の舞台

門和佐の舞台

葛畑の舞台(芝居堂)

上三河の舞台

下谷上の舞台

田熊の舞台

中山の舞台

肥土山の舞台

高野の舞台

八代の舞台
詳細は「農村歌舞伎舞台」を参照
人形芝居舞台

下黒田の舞台

真桑の人形舞台

犬飼の舞台

坂州の舞台

舞台が現存しない桟敷

赤崎神社楽桟敷

池田の桟敷

脚注[脚注の使い方]^ 河秩B1943, pp. 159?160.
^ 後藤 1925a, pp. 6?7.
^ 後藤 1925b, pp. 55?57.
^ 河秩B1943, pp. 161?162.
^ 後藤 1925a, pp. 7?9.


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