舗装
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平坦に形成された路床の上に栗石の基板層を厚さ約18 cmで敷設して基礎とし、その上に厚さ18 cmの砕石、表層部分に砂利2.5 cmを敷き詰めて転圧したものである[9][10]。彼がカレドニア運河・多数の橋梁・道路・港湾 等々の建設にたずさわる中で考案されたものとされる。テルフォードによる道路舗装の開発・改良は、4輪馬車による道路交通の輸送量増加に大いに貢献した。

さらに1815年には、スコットランドのジョン・ラウドン・マカダム(英語版)[注釈 2](1756?1835年)が、舗装の普及のために、より安価で耐久性のある構造・工法を提案した(「マカダム工法」)[9]。断面形状はトレサゲ工法と同じものだったが栗石は使用せず、平坦な路床の上に直接砕石を厚さ20 cmで敷設して、その上層部に細粒砕石2.5 cmを施設して転圧したものである[9]。マカダム式舗装は、技術的にも容易で施行期間が短くできたので広く普及し、近代マカダム式道路の原型にもなり、日本でも明治時代に標準構造として採用された[9]

しかし、砕石舗装は時代とともに道路の交通量が増えるにつれて、維持管理費がかかるようになったことに加え、路面を平坦に保つことが困難であることがわかりはじめ、さらに20世紀になると自動車が普及したことにより、自動車走行には不向きであることが顕著となり、次世代の舗装であるアスファルトやコンクリート系の舗装に移行するようになった[5]
日本

日本最古の舗装は、約3500年前の縄文時代後期、新潟県村上市の元屋敷遺跡で舗装道路の遺構が発見されている[8]。この遺構では、道の両側に平たい石を置き、その間に砂利を敷き詰めたもので、規模は幅約2 m、長さは約40 mあり、主に日常生活のために造られたものではないかと推測されている[8]

江戸時代には、初期ごろに平戸長崎で石畳舗装が造られており、1680年に箱根の山越え道に1400両あまりをかけて石畳が造られたほか、1805年の京都では、東海道(三条街道・大津街道)の三条大橋 - 大津八丁間において、牛馬道と人馬道を分けた石畳道(大津街道軌道舗装)がつくられている[8][11]

日本初のアスファルト舗装といわれているものは、1878年東京都千代田区神田昌平橋で施工されたものや[12]、長崎のグラバー邸通路の瀝青材料を使ったアスファルト舗装だとされている[11]。ただし、日本に自動車が登場する1899年までは、ほぼ全ての道路は非舗装といってもよい状況であった。また、自動車の通行が見られるようになった後も、東京都心ですら幹線道路から外れた道路となれば、全て非舗装という状態であった[13]。明治後期になってようやく全国に先駆けて東京都心部の道路が舗装され始められるようになったが、現在の簡易舗装にも劣る質の悪いもので、自動車が走ると、瞬く間に舗装が損傷する程粗末な物であったという[13]

大正時代になってようやく近代舗装が開始されるようになったが、この当時の大部分の国道などは砂利道のままとなっていた[11]。このとき、自動車の普及によって舗装の耐久性向上への要求が高まっていた[14]。自動車を対象とした日本初の舗装が施工されたのは、1911年に東京市で造られた木塊舗装、シートアスファルト舗装(アスファルトモルタル舗装)、コンクリート舗装である[11]1923年関東大震災は東京を中心に壊滅的な打撃を与えたが、これを契機に震災復興事業は国の予算で実施されることなり、国の機関として設置された帝都復興院(のちに復興局)が、幹線道路の舗装を担当したことによって、東京市内の路面舗装が急速に普及し、1919年に制定された都市計画法に基づく街路事業と相まって大幅に進展した[15]。本格的な舗装道路は、1926年に東京・品川 - 横浜市神奈川区間、尼崎市 - 神戸市灘区間で施工されたものである[13]

昭和時代になると、アスファルトが国産化されることによって、基層を持たない厚さ3 - 4 cm程度の簡易舗装が普及しはじめた[11]。戦前の日本では、1931年東京市が舗装率55%超えを記念して道路祭を開くなど、徐々に舗装が進められていた[16][17]。しかし1960年頃までは、国内の道路のほとんどは非舗装で、幹線国道でも舗装されていない道路が多かった[4]。舗装整備が欧米諸国から大きく遅れをとった最大の原因は、移動手段のほとんどが徒歩で、馬車交通の時代がなかったからであるといわれている[13]

戦後間もない日本の道路は、戦争によって荒廃した未舗装のすれ違い困難な狭隘道路ばかりで、道路施策について建設省ではトータルコストの観点から、当初は拡幅などの改良を終えてから舗装を行うべきとする考え方が支配的であったが、拡幅するためには用地取得に時間がかかり現実的でなかったため、1950年代になってから舗装優先主義に切り替えた[18]。石油産業の発達により、アスファルトの供給がドラム缶に詰める方法からタンクローリーで供給する方法に変わった[14]ほか、多量かつ安価にアスファルトの入手が可能になった[19]。石油アスファルト舗装が1954年(昭和29年)から始まる第1次道路整備5箇年計画から本格化した[20]。かつてはコンクリート舗装が一定の割合で舗設されていたが、高度経済成長期に初期コストが低く、早急な道路整備が求められるようになり、アスファルト舗装の施工が大幅に増加して、コンクリート舗装の割合は減少していった[11]1956年には、東京 - 神戸間の高速道路調査のためにアメリカから来日したワトキンス調査団の調査報告書(ワトキンス・レポート)の中には、当時の日本の道路事情の劣悪さを示した文章が記載されている[11]。このような状況下にもかかわらず、自動車の登録台数は増加の一途で、道路整備の急務が課題となった[11]モータリゼーションが始まった1960年代後半から、ようやく日本全国で道路の舗装化が急速に進み[13]、一般道路の舗装率は、1970年昭和45年)の統計で約15 %に過ぎなかったが、2000年平成12年)では約76.4 %に達した[12]2001年(平成13年)には透水性舗装が本格的に導入され、道路構造令での舗装の規定が「セメント・コンクリート舗装又はアスファルト・コンクリート舗装」という仕様規定から4種の指標(疲労破壊に対する耐久性・わだち掘れに対する抵抗力・路面の平坦性・雨水等の浸透能力)に基づく性能規定へと変更された[21]

舗装は古くは馬車や自動車を目的としたものであったが、1958年(昭和33年)の道路構造令改正に伴い歩道に対して舗装を実施することがはじめて定められた[20]。また、「アスファルト舗装要綱」には1967年(昭和42年)に歩行者系道路舗装についてはじめて記述され、1993年(平成5年)の道路技術5箇年計画では「歩行者にやさしい舗装材料」として歩行者への負担を軽減する舗装材料の開発を行うとした[20]

舗装廃材の再生利用に関する研究は昭和20年代から始められていたが、実際に再生利用が行われ始めたのは昭和50年代に入ってからで、技術進歩のほか、1971年(昭和46年)に廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃掃法)の制定や舗装廃材の発生量の増加による処分地確保の問題が背景にある[22]
分類

舗装の分類法は、(1) 舗装表面に使用する材料による分類法、(2) 舗装の機能に着目した分類法、(3) 使用箇所に着目した分類法がある[23]。このなかで、多く使用されている分類法は、舗装表面に使用されている材料の使用による分類法である。代表的なものとしては、アスファルト舗装とコンクリート舗装の二つに大別される[23]


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