憲宗が薨逝した頃、興宣君は王孫として王位継承者の候補者になったが、安東金氏の思惑により排除された。哲宗を即位させた安東金氏は勢道政治の基盤を強化し、王族を厳しく監視していたので、興宣君は保身策として凡暗を演じ、「千河張安」と呼ばれた千喜然
、河靖一、張淳奎、安弼周などのならず者たちと関わり、妓生と昼夜遊んだりしていた。そうした有様を安東金氏からは「宮道令」と卑称されて油断され、監視から免れた。この頃は勢道家などを回っては乞食のように振る舞って食事を得たり、使用人を与えられるなどして生活していた。小説家金東仁の「雲?宮の春」には、当時の大院君は酒に溺れていたが、内面では気概を保ち、唾を吐かれた時は拭き取って大きく笑ってみせ、必要以上に食べて侮辱までも甘受していた、とある。興宣君はならず者か乞食のような装いの裏で着々と有力者に近づく努力を続けていた。親交を結んだ趙成夏(承侯君)の伝手で、彼のおばに当たり安東金氏に対抗する豊壌趙氏の神貞王后の知己を得ることに成功する。興宣君と神貞王后は謀議を重ね、息子の命福(高宗の幼名)を王位継承者とする合意を得た。それによって宮中の宦官や女官を包摂し、王族とのつながりを深くした。安東金氏とも親交を結ぶ為に金炳学や金炳国らと通じ、安東金氏の中からも興宣君を支持する者も現れた。
第一次執政期
乞食から国父に1869年の金冠朝服の肖像画
1864年1月に哲宗が薨逝すると、神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につけた。息子が王となったことで、興宣君はあらためて「興宣大院君」に封爵された。朝議では、前例の無い存命中の大院君の立場について議論され、礼遇については国王以上の待遇を与える代わりに政治に口出しできない名誉職とする案もあったが、最終的には地位は国王の下、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る四人轎の乗車はしないなど下の設定を取ることで参政が許され、垂簾聴政を行う神貞王后の補佐という名目で摂政となった。実際は神貞王后が大院君に大権を委任していた。 摂政の座に着いた大院君は、早速勢道家 法治秩序の再整備に向けて勢道政治や貪官汚吏など堕落した王朝を再建するため、「大典会通 朝鮮にはそのころ、800ほどの書院(儒学の学校あるいは塾で、儒教を尊重した李朝における権威は強かった)があったが、ほとんどの書院は権威を嵩に着た横暴や専横がひどく、墨牌という金銭を奉納しろという告知書を不正利用して、納めない者への私刑が横行する有様で、書院によるこのような弊害は国庫に打撃を与えるほどであったので、1864年8月書院が保有する土地に税金をかけ、所有奴婢の身分解放などを行った。特に大院君は摂政となって即座に、朝鮮4大書院の一つでありながら横暴や不正が甚だしかった華陽洞書院
基本政策
王権改革
国内政策(田税・軍役・還穀)の税制を改革した。書院の整理・撤廃や、景福宮の再建、願納銭の徴収、当百銭の製造、天主教の弾圧などを強行した。[1]
制度改革
書院整理