自由民主党_(日本)
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「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため、党名は変更されなかった[72][73]
党史
保守合同による結党と55年体制成立1955年(昭和30年)の日本民主党と自由党の保守合同による自由民主党結成大会。場所は旧中央大学講堂。 「保守合同」および「55年体制」も参照

戦後日本の政党政治は占領下での選挙から始まり、当初は極めて多くの政党が誕生した[74]。初めて女性参政権が導入されて行われた1946年(昭和21年)4月10日戦後第一回目の総選挙では、13の全国政党を含めて363にのぼった[75]。保守政党は、戦前日本の二大政党制を築いた立憲政友会立憲民政党の系譜を踏襲する複数の政党として再建されていたが、保守合同が幾度も模索されながらも実現に至っていなかった[3]

1955年(昭和30年)11月15日の午後1時20分から、東京都神田中央大学講堂(当時)にて自由民主党の結党大会が開かれた[3]。衆参両院議員・地方代表・一般招待者の約1500人が出席した[3]。大会は前日の首脳六者会談で整えられたお膳立て[注釈 9]通りに進行し、党規党則綱領政策活動大綱・党役員が満場一致で可決・承認された[76]。こうして衆議院299人、参議院118人の勢力を擁する近代政治史上初の単一保守政党が成立した[77]。同年10月13日に先立って開かれた日本社会党統一大会において、4年間左派右派に分裂していた社会党が再統一したことに危機感を覚えた財界の圧力もあって吉田茂鳩山一郎の抗争は終焉し、保守合同が実現した[78]。自民党は結党当時から与党として存在し[79]、それ以降も1993年の衆議院選挙で過半数を割るまでの38年間単独で政権を担当することになる[80](例外として、自民党から分党した新自由クラブと1983年に連立を形成している[81])。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注釈 10]。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した[注釈 11]

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から結成後9年経った1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ国務省)の反共主義政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[82][83][84]。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党と民社党に資金援助を行い、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた[84]。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している[84]
高度経済成長と党安定期

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って、第2次岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与党への同情から安保闘争から間もない1960年(昭和35年)の第29回総選挙では社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げ、政治運動は影を潜めるようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない[85]」とオフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[86]

1964年(昭和39年)、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継者に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出した為に自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが新左翼への反発から安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤[87]」と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

1960年代から、岸信介を中心に反共産主義の運動を通じて、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との関係を深めていった。詳細は「世界平和統一家庭連合と政界との関係」を参照

結党から1960年代の終わりまでの時期、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったものの全体として安定期だった。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、左派・革新系の社会党日本共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民社党の結成や公明党・日本共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。
保革伯仲と党内抗争

佐藤長期政権後に行われた1972年(昭和47年)の総裁選では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。


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