略称・通称は「自民党[20][34][58]」、「自民[59]」。1字表記の際は「自」[59]。
2012年(平成24年)12月以降、公明党と自公連立政権を構成している[60][61][62][63][64]。 1955年(昭和30年)に日本社会党の台頭を危惧したかつての、自由党と日本民主党が合同(いわゆる保守合同[4])して結成された保守政党である[34][58]。以来、日本社会党と約40年に及ぶ保革対立の政治構造である「55年体制」を形成した[2][20][34]。戦前の政党政治を率いた二大政党である立憲政友会、立憲民政党を遠い起源とし[2]、翼賛体制の中核を担った会派である翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛体制に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)、護国同志会(日本協同党の前身)、日本自由党、日本進歩党、日本協同党の流れを汲む。 党の運営は永らく執行部の権力が弱くベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは1つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたことによるものである。同じ選挙区の同僚議員は同じ政党でありながら当選を競い合うライバルだった[注釈 8]。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに、選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。 自民党は保守政党[4][20][22]ながら、55年体制の時代は欧米における保守政権より経済統制の強い社会民主主義に近い位置にあった[65]。野党第一党だった日本社会党が分裂、衰退の一途をたどる中、護送船団方式、農業への補助金交付、地方における公共事業などの強力な政府介入による格差平準化でみられた自民党の「裁量的政策」や「リスクの社会化」政策に対し「戦後の自民党体制は成功した社会主義であった」との皮肉もある[66]。 戦後、長く日本の政治を支配している政党で[20]、1993年(平成5年)に非自民政権だった細川内閣が成立するまで38年間一貫して政権与党の座にあり続け[4]、世界的にも稀に長い一党優位政党制の中心にあった[20]。結党以来、政権を失い野党となったのは、1993年 - 1994年の非自民・非共産連立政権及び2009年 - 2012年の民主党政権の期間である[4][20][34]。 党章は陰十四菊の中央に「自民」のモノグラム。広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いている。また、かつては象をシンボルマークにしていたこともある[67]。 自民党は多数の政治家を輩出している。1990年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。歴代内閣総理大臣では、日本新党の細川護熙、新生党の羽田孜、民主党の鳩山由紀夫が該当する。その他にも小沢一郎、亀井静香、岡田克也、鈴木宗男、渡辺喜美、石原慎太郎、片山虎之助、松井一郎、小池百合子、馬場伸幸などがいる。 党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して発足された「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった[68]。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ[69]」などの意見が噴出し採用されず、党内で討議された結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。 菅直人と鳩山由紀夫が結党した旧民主党や小沢一郎の創立した自由党が登場した後は、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。
概説
党名