自由民主党総裁
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四十日抗争時の「大平正芳総理・福田赳夫総裁」案 - 大平が「福田総裁代行」とすることを要求したが、いずれも成案とならず、首班指名の分裂およびハプニング解散に至った[注釈 15]

鈴木善幸退陣時の党内調整における「中曽根康弘総理・福田赳夫総裁」案 - 中曽根と田中角栄の拒否により総裁公選(1982年自由民主党総裁選挙)となった。

なお、自民党においてはこれまで、総裁を退いた場合ただちに首相も辞任(=内閣総辞職)する、あるいは首相を辞任した場合はただちに総裁も退くことが通例となっている。すなわち新総裁=新総理となるが、新総裁が国会での指名選挙を経て新首相になるまでの数日間は一時的に総理・総裁が別人になる(報道等において、内閣総理大臣=自民党総裁である場合は一般的には総理の肩書きが使用されるが、その数日間は総裁という肩書きが使用される)。
総総分離に類似した政局

上記の議論とは別の理由によって総裁以外の自民党議員が首相に指名されたり首班指名で投票した例がある。

石橋湛山の総裁時代における岸信介の首相選出、池田勇人の総裁時代における佐藤栄作の首相選出(池田裁定

いずれも総理総裁であった人物が発病のために政務・党務が困難となり、直近の総裁選で2位であった人物が後継指名され、総裁選を経ずに首班指名されたものである。いずれも首相になったのちに後継総裁に選出された。その際前者の例では形式的に自由投票方式の総裁公選(1957年自由民主党総裁選挙)が実施された。いずれの例でも約1か月間、総裁と首相が別人になっていたが、総総分離とは呼ばれず、また総総分離体制の持続を意図したものともみなされていない。


麻生太郎の総裁辞任直後[注釈 16]における若林正俊の首班指名

2009年の衆院選大敗によって第1党から転落した責任を取る形で麻生執行部の退陣が決定した中、後継総裁はまだ選出されず、また自民党議員が首相になれないことが確実視されていたことから、自民党は全員一致で投票できる候補として両院議員総会長の若林を首相候補とした。


その他
肖像画

自民党本部の8階ホールには、歴代総裁肖像画が展示されている。ただし、1994年6月に自民党執行部が村山富市を首班指名し、海部がそれに異を示して離党した時には、総裁としての海部の肖像画が外された。その後、2003年11月に海部が自民党に復党した際、海部の肖像画が再び展示されるようになった[17]

この肖像画は自分で好きな画家を指名することが可能で、1枚数百万円ともいわれる。8階ホールでは26人目まで飾る部分が確保されている(現職の岸田は第27代・26人目[注釈 17])。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 就任時に前任者の残任期間を引き継いだ場合、その残任期間は算入されない。よって、この場合には、その残任期間に加えて最長で3期まで連続で在任できるため、最長で通算12年近く連続で在任できることになる。なお、一度退任した後の再就任については制限はなく、再就任の場合には、任期のカウントがリセットされる。
^ 1956年4月5日までは総裁代行委員が総裁職を代行した。
^ 比較第一党とは、過半数には達しないものの全ての政党のうち最も議席数の多い党のことである。
^ 第21代総裁の安倍晋三が退任後に再び第25代総裁となったため、以降の代数と人数には差異がある。
^ 1956年1月28日に死去後、後任に松野鶴平(旧自由党)が1956年2月10日から就任。
^ 日本国憲法下で最初の、任期満了により失職した衆議院議員。
^ a b c 在任中に逝去、副総裁西村英一が総裁代行に就任。
^ 総裁就任後、森派を離脱。
^ 麻生は第45回衆議院議員総選挙に大敗し、野党に転落した責任を取って、首相指名選挙を前に2009年9月16日午前に総裁を辞任[7][8]。麻生が後継総裁の選出を待たずに総裁を辞任したため、総裁は同日から後継総裁に谷垣が選出された9月28日まで空席となった。9月16日午後[9]特別国会で行われた首相指名選挙では、自民党は党総裁が空席のため、党両院議員総会長(当時)の若林正俊に投票した。
^ 麻生は第45回衆議院議員総選挙に大敗し、野党に転落した責任を取って、首相指名選挙を前に2009年9月16日午前に総裁を辞任[10][11]。麻生が後継総裁の選出を待たずに総裁を辞任したため、総裁は同日から後継総裁に谷垣が選出された9月28日まで空席となった。9月16日午後[12]特別国会で行われた首相指名選挙では、自民党は党総裁が空席のため、党両院議員総会長(当時)の若林正俊に投票した。
^ 一度退任した総裁(第21代)が再就任した唯一の例。
^ 所属派閥の清和政策研究会は、町村信孝衆議院議長就任により細田博之が後任会長に就任したため、通称が細田派となる。
^ 大平総裁は鈴木の幹事長起用を望んだが、反主流派が鈴木は田中に近いとして反対し断念。総務会長には3度就任。
^ 第1次大平内閣組閣の際、蔵相の提示を受けたが幹事長を要求し就任せず。
^ なお、このハプニング解散によって施行された衆参同日選挙中、総理・総裁の大平が急死するという事態となり、総理としての政務は内閣官房長官であった伊東正義が内閣総理大臣臨時代理として代行し、総裁としての党務は党副総裁であった西村英一が代行した。このため、結果的に総理・総裁の権力が分離する事態が生じた。この状態は、選挙後、西村裁定によって鈴木善幸が総裁として選出されるまで続いた。
^ 麻生は2009年9月16日午前、同日午後に行われる首班指名に先立って総裁を辞任した。
^ 安倍(第21代・第25代)が2回総裁を務めたため、代数と人数は一致しない。

出典^ 党則・総裁公選規程
^ 中野光樹 (2020年9月10日). “「総理」と「総裁」似て非なる2つのポスト【記者が解説!】”. TBS (YouTube). https://www.youtube.com/watch?v=Z6lFom4TAa4 
^ a b “党則”. 自由民主党 (日本) (2017年3月5日). 2021年10月4日閲覧。
^ a b “自民党 総裁任期3期9年、延長決定 首相在任が21年まで可能 「改憲発議へ議論」”. 毎日新聞. (2017年3月6日). https://mainichi.jp/articles/20170306/ddm/001/010/168000c 2021年10月4日閲覧。 
^ “安倍内閣が総辞職 連続在任最長、2822日で幕”. 日本経済新聞. (2020年9月16日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63896240W0A910C2MM0000/ 2021年10月4日閲覧。


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