自由意志
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固い非両立主義:決定論非決定論に関係なく自由意志を否定する。


決定論

決定論は、様々な意味を持つ幅広い用語である。それぞれの異なる意味に対応して、自由意志に関する異なる問題が生じる[5]因果的ないし単調的決定論とは、未来の事象は自然法則を伴う過去および現在の事象によって必然化されているという主張である。このような決定論は、時として、ラプラスの悪魔という思考実験によって表現される。過去および現在のあらゆる事実そして宇宙を支配するあらゆる自然法則を知っている存在というものを想定してみればよい。このような存在は、未来を最も細部に至るまで予測するために、この知識を利用することができるかもしれない[6]

他方で、論理学的決定論とは、あらゆる命題は、それが過去に関する命題であれ、現在あるいは未来に関する命題であれ、真か偽のいずれかであるという考え方である。自由意志の問題は、この文脈では、未来におけるある事柄が現在において既に真か偽に定まっているにもかかわらず、その選択が自由であることがありえるのかという問題に行き着く[5]

また、神学的決定論の主張によれば、人類が行おうとするあらゆる事柄を、彼らの行為を全知というある形式を通じてあらかじめ知ることによって[7]、あるいは彼らの行為をあらかじめ定めておくことによって決定する神が存在する[8]。自由意志の問題は、この文脈では、もし私たち人間のために時の流れの最初からその行為を決定した存在というものがいるならば、どうして私たち人間の行為が自由でありえるのかという問題に行き着く。

生物学的決定論の見解によれば、あらゆる振舞、信念および欲求は、私たちの生来的な性質によって固定されている。この他にも、文化的決定論や心理的決定論などを含む様々な決定論がある[5]。もっとも、これらの決定論的な主張が、例えば氏と育ちの複合的決定論のように、結び付けられるのが普通である。
両立主義トマス・ホッブズは古典的な決定論者である。

また別の哲学者は、決定論と自由意志は両立可能であると考えた。これは両立主義(りょうりつしゅぎ)とよばれる考え方である。両立論者は決定論を認めつつ、自由という概念をそれに合う形で再定義しようとする[3]。そのため論者によって自由意志の定義も異なる。
古典的両立主義

トマス・ホッブズような両立主義者にとって、自由意志とは、「その個人の意志にしたがい、外的な障害に阻まれることなく行動すること」を意味する。この立場は両立主義の典型である。両立主義者たちは自分たちの主張を解説するために、強姦、殺人、窃盗あるいはその他の制約によって、ある人の自由意志が明らかに否定されるような事例を指摘する。このような事例で自由意志が欠如しているのは、因果的に過去が未来を決定しているからではなく、他者が個人の欲求や選好を無視しているためである。他者が個人を強制しているのであり、両立主義者によれば、これは自由意志を覆していることになる。かくして、両立主義者は、自由意志にとって重要なのは、個々人の選択が自らの欲求および選好と一致していることであって、何らかの外的(または内的)な力によって覆されていないことだ、と論じる[9][10]。両立主義者であるためには、自由意志についての特定の考え方を支持する必要はなく、決定論が自由意志に反するということを否定するだけでよい[11]
現代的両立主義

ハリー・フランクファートダニエル・デネットのような現代的な両立主義者の主張によれば、たとえ強制された行為者であっても、その強制が行為者の個人的な意図や欲求と一致していれば、やはりその人は自由であるといわれることがある[12][13]。特に、フランクファートは、階層の網と呼ばれる両立主義を提唱した。この考えによれば、個人は、互いに矛盾する一階の欲求を持つことができ、これらの一階の欲求に関する欲求(二階の欲求)というものを持つこともできる。その結果、これらの欲求のうちのどちらかひとつがその他の欲求に勝ることになる。個人の意志は、影響力のある一階の欲求(それに基づいて行為した欲求)と同一視されることになる。例えば、無意識的な麻薬中毒患者、不本意な麻薬中毒患者、自発的な麻薬中毒患者が存在するとしよう。これら3種類の患者はみな、麻薬を摂取したいという一階の欲求と、麻薬を摂取したくないという相反する一階の欲求を持っているかもしれない。第一グループである無意識的な中毒患者は、麻薬を摂取したくないという二階の欲求を持たない。すなわち、彼らには麻薬に関する二階の欲求そのものが欠けており、麻薬摂取の有無は対立する一階の欲求の優劣に依存する。第二グループである不本意な中毒患者は、麻薬を摂取したくないという二階の欲求を持っている。他方で、第三グループである自発的な中毒患者は、麻薬を摂取したいという二階の欲求を持っている。フランクファートによれば、第一グループのメンバーは、意志が欠如しているとみなされるべきであり、したがってもはや人格をもつ存在ではない。第二グループのメンバーは、麻薬を摂取したくないということを自由に欲求しているが、彼らの意志は中毒によって打ち負かされてしまう。最後に、第三グループのメンバーは、彼らを中毒にした麻薬を自発的に摂取している。フランクファートの理論は、任意の数のレベルを分岐させることができる。この理論に対する批判は、意志の葛藤が欲求や選好のより高次レベルにおいて生じないとはかぎらないと指摘する[14]。また、ある人々は、フランクファートは階層の網の中で様々なレベルがどのように相互作用するのかという問題に対する適切な説明を与えていないと論じる[15]

デネットは彼の著書『自由の余地』において、自由意志の両立主義を擁護する論拠を提示した。これは、同じく彼の著書『自由は進化する』の中でさらに詳述されている[16]。彼によれば、もしある人が神や全能の悪魔などの可能性を排除するならば、そのとき、カオスと、世界の現状に関する私たちの知識の正確さに対する生来的な制約のせいで、未来はあらゆる有限的存在者にとって不確実になる。唯一明解なものは、予想である。別様に行為する能力が意味を持つのは、このような予想に対してのみであって、知られておらずまた知ることのできない未来に対してではない。各人は誰かが予想したのとは異なる仕方で行動する能力を有しているので、自由意志は実在することができる[16]。非両立主義者は、このような考え方には私たちは環境からの刺激に対応する形で単に自動的な応答をすることしかできないという問題が纏わりつくと非難する。彼らの主張によれば、私たちの行為は全て、外的な力によってコントロールされているか、あるいは、ランダム・チョイスでしかない[17]。自由意志の両立主義に関するもっと洗練された分析が、その他の批評家たちによって提供されている[11]
非両立主義ドルバックは筋金入りの決定論者であった。

非両立主義には3つの立場がある。ひとつは、ドルバックのような筋金入りの決定論者であり、決定論を肯定して自由意志を否定する。もうひとつは、(哲学的)リバタリアンであり、トマス・リード、ヴァン・インワーゲン、ロバート・ケインなどがこれに属する。彼らは、自由意志を肯定して決定論を否定する非両立主義者であり、何らかの意味で非決定論が真であると考えている[18]。最後のひとつは、固い非両立主義であり、自由意志というものは、決定論とも非決定論とも相容れない。つまり、この立場によれば、自由意志は、決定論的世界観と非決定論的世界観とを問わず、そもそも成立しない概念である。デルク・ピールブーム(Derk Pereboom)[注釈 1]がこの見解を擁護している[19]
直観による論証

非両立主義の伝統的な論拠は、デネット流に言えば、次のような直観ポンプ(intuition pump)に基礎付けられている。もし人間が彼の行為の選択において決定されているとすれば、彼は、その振舞を決められているその他の機械的存在と似たことになるはずである。つまり、仮に人間の振舞が因果的に決定されているならば、そのときには彼は、風見鶏、ビリヤードの球、人形あるいはロボットよりも洗練された存在ではないはずである。これらの物は自由意志を有していないので、もし決定論が正しいとすれば、人間も自由意志を有していないはずである[20][18]。要するに、このような非両立主義は、人間以外の事物には自由意志がないという直観から出発し、人間と事物の類似性から、決定論と自由意志との両立を否定する。言い換えれば、決定論が正しいときには、人間は人間以外の事物と似通っており、そして人間以外の事物は自由意志を有していないので、人間もまた自由意志を有していないと考えられる。このような論拠は、例えばデネットのように、たとえ人間がその他の事物と何らかの要素を共有しているとしても、だからといって人間とそれらの事物との間に重要な差異がないということにはならないという理由で、両立主義から拒絶されている[13]。また、人間と事物は類似しているがゆえに事物にも自由意志があるという反対の推論がなぜ認められないのかというアニミズム的な疑問も残る。
因果律による論証

非両立主義のもうひとつの論拠は、因果の鎖である。非両立主義は、自由意志に関する観念論のキーとなる。ほとんどの非両立主義者は、行為の自由という観念が単なる自発的振舞から成り立っていることを否定する。彼らの主張によれば、むしろ、自由意志とは、人間が自己の行為の究極的で根源的な原因であると主張する。伝統的な言い回しによれば、人間は自己原因でなければならない。ある人の選択が有責であるということは、彼がそれらの選択の第一原因であるということに等しい。ここで、第一原因というのは、その原因に先行する原因がないということを意味する。その論証は次のようなものである。もし人間が自由意志を有しているならば、人間は選択の第一原因である。もし決定論が真であるならば、人間のあらゆる選択は、彼のコントロールに服さない事象および行為に因る。それゆえに、もし人間が為すこと全てが自己のコントロールに服さない事象および行為に因るならば、人間が自己の行為の究極的な原因であることはありえない。したがって、人間は自由意志を持ちえない[21][22][23]。このような論拠もまた、様々な両立主義者たる哲学者たちによって批判されている[24][25][26]


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