自由党_(日本_1890-1898)
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板垣党総理が星を擁護したこともあり、11月29日の議会における議長不信任決議案は、党議では「反対」で臨んだものの、他党の賛成多数で可決。これに対して星が議長辞任を拒否して混乱する最中、12月2日、東北派、九州派の議員14名が脱党、同志倶楽部を結成。星は12月4日に脱党届を提出、13日に衆議院より除名された(その後、翌年の総選挙で当選し、自由党にも再入党した)[11]

この頃から、自由党は伊藤内閣への接近を再び開始する。第5回帝国議会(1893年11月28日召集)において、立憲改進党以下、他党は硬六派を結成したが、自由党はこれに加わらず、行政整理の実施について政府を追及した。第3回衆議院議員総選挙(1894年3月1日投開票)においても、第一党を維持。第6回帝国議会(5月15日召集)では、硬六派による内閣弾劾上奏案は反対して否決したが、これとは別に「内閣の行為に関する弾劾上奏案」を提出、こちらは可決された。短期間での再解散後、第4回衆議院議員総選挙(9月1日投開票)においても引き続き第一党を維持。解散中に日清戦争が勃発し、自由党は硬六派とともに政争を中止、政府の戦争遂行に協力した[12]

日清戦争は翌明治28年(1895年)4月17日、下関条約の締結によって終結したが、直後の23日、三国干渉が行われる。政府と民党との蜜月関係は終結し、硬六派は再び政府攻撃を開始する。自由党はこの動きにはくみせず、5月9日、党本部より議員に向けて、運動にかかわらないよう通達されている。6月頃には、林有造(土佐派領袖)を窓口として内閣との接触を行い、7月17日、党代議士会において、政府の対外政策と歩調を合わせることを議決する。この連携には、党内では星率いる関東派が否定的であったが、河野・林・松田の三派が星派の反発を抑えた。提携宣言書は11月22日に手交された。第9回帝国議会(12月28日召集)においては、硬六派の攻撃を、自由党が閣外協力する形で乗り切る。ただし、官僚機構内部では、山縣有朋元老を筆頭に政党との連携に反対する勢力が大きく、自由党提出の法案が貴族院で否決されることもあった。議会閉会後の明治29年(1896年)4月14日には、板垣は内相として入閣している。また、党内で連携に反対していた星は、27日に駐米公使となって渡米した。伊藤は更に改進党との連携、大隈重信の入閣による挙国一致体制を狙ったが、板垣が反対し、これは流れる。戦後処理が一段落したこともあり、第2次伊藤内閣は8月27日に総辞職、板垣の入閣期間は4か月ほどであった[13]

かわって成立した第2次松方内閣では、立憲改進党改め進歩党が与党入り、大隈が外相に就任したほか、政党人が政府要職に就き、松隈内閣と通称された。自由党は野党に転落したが、これによって、伊藤との連携を積極的に進めていた河野は党内で孤立する。更に、第10回帝国議会(12月25日召集)にて行われた議長選挙で、自由党は国民協会佐々友房を推したが、河野派の一部が薩摩閥(松方内閣)と共謀して造反し、進歩党の鳩山和夫が議長に就任する。河野は党内に居場所を失い。翌明治30年(1897年)2月、自由党を脱党する[14]

第2次松方内閣は、政党人の政府入りやそれに伴う薩摩閥内部での松方首相への反発などで政府内に軋轢が生じ、伊藤、板垣らは、政権復帰を目指す。11月6日に進歩党が党議により薩摩閥との提携を断絶、大隈以下が政府から引き上げると、薩摩閥は自由党を勧誘し始めた。自由党では松田が薩摩閥と近く、松田が高島鞆之助陸相らを相手に交渉し、

大臣二枠を譲ること

知事五人を任命すること

自由党の政見を採用すること

この3点で合意に達する。しかし、林ら土佐派は薩摩閥との連携に強固に反対する。12月15日、党大会において、党は松田の薩閥連携を否決する。立ち行かなくなった松方内閣は、25日、第11回帝国議会冒頭で内閣不信任案を突きつけられ、衆議院解散、即日内閣総辞職した[15]

松方内閣の総辞職後、伊藤が後継首相として第3次伊藤内閣を組織する。自由党は、第2次内閣に引き続き与党となる予定であったが、伊藤は進歩党も含めた大連立を構想しており、互いに反目した自由、進歩両党の条件闘争の調整がつかず、総選挙前の連立政権樹立を断念する。第5回衆議院議員総選挙(1898年3月15日投開票)では、自由党が進歩党を1議席差で上回り、第一党を維持する。選挙後、伊藤と自由党との間で連立交渉が進み、板垣の入閣で合意に達する。しかし、伊藤が閣議ではこれを提案したところ、井上馨蔵相以下大臣が反対し、入閣は流れてしまう。4月19日、党本部は伊藤内閣との断絶を決定する。伊藤内閣は少数与党体制で第12回帝国議会(5月19日召集)に臨み、自由党は進歩党とともに野党同士として対峙する。政府提出の地租増徴案が自由・進歩両党を含む大差で否決され、議会運営は早々に行き詰まり、6月10日、前回選挙からわずか3か月で、伊藤内閣は衆議院解散に踏み切った[16]

この直後、自由党、進歩党の間で合同の機運が持ち上がり、22日、両党が合同して憲政党が誕生。自由党は一旦その役目を終えることとなった。
後史

憲政党の結党により、選挙後の政権運命のめどがつかなくなった伊藤は総辞職、後継には合同直後の憲政党の板垣・大隈両名を推薦する。かくして、史上初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生したが、旧自由・進歩両勢力が角逐を散らし、ほどなく党は分裂、政権も崩壊する。

旧自由党勢力は、旧進歩党側を出し抜く形で同名の政党「憲政党」を結成し、実質的に自由党が復活する。その後、4度目の組閣をした伊藤の求めに応じる形で立憲政友会を結成、戦前の二大政党制の雄として発展する。戦中の解党と翼賛政治連盟への合流、戦後の離合集散を経て、自由民主党として後継政党は現在にまで存続している。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 結党直後に選出された常議員69名の内、現職衆議院議員は31名で、過半数が非議員で会った。特に、関東付近において、非議員の常議員が多かった[7]

出典^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年9月27日閲覧。
^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年9月27日閲覧。
^ a b c 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、956頁。ISBN 4-06-203994-X
^ a b c d 新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第7巻』 林泉社、1940年、p.484
^ a b c 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、974頁。ISBN 4-06-203994-X
^ 升味, pp. 164?169.
^ 升味, p. 164.
^ 升味, pp. 163?172.
^ 升味, pp. 177?179.
^ 升味, pp. 202?209.
^ 升味, pp. 221?227.
^ 升味, pp. 240?243.
^ 升味, pp. 247?268.
^ 升味, pp. 268?273.
^ 升味, pp. 275?287.
^ 升味, pp. 287?292.


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