自由・平等・友愛
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標語の最後の言葉が友愛に変わったもののなかで、文書が残る最古はマクシミリアン・ロベスピエールが書いたもので、1790年12月の中旬に印刷され、人民結社(民衆協会)[4]を通じてフランス全土に広まった『国民軍の設立に関する演説』[5]であった。ただし、国民軍の設立が立憲議会で議論された1790年12月5日、1791年4月27-28日のいずれでも実際にこの演説がなされることはなかった[6]カミーユ・デムーラン、イギリス人フィリップ・スタンホープ(英語版)、アントワーヌ=フランソワ・モモロ(フランス語版)もこの言葉を口にしている[7]

モモロは1791年5月29日にもコルドリエクラブでこの標語を取り上げている[6]ので、この標語を広めたモモロこそが「自由、平等、友愛」の発案者であるという説が古くからあるが、最初に誰が言い出したのかは記録がはっきりしない。

ナンシー事件のシャトーヴューのスイス傭兵を称えて行われた「自由の祭典」の際にもこの標語が前面に押し出されており[8]パリ・コミューンの長、ジャン=ニコラ・パシュは1793年6月21日に、各所の壁にこの標語を書かせた――「自由、平等、友愛、さもなくば死」。特に共和暦V年からVII年の総裁政府が友愛の誓いの代わりに王党派無政府主義者への憎しみの誓いを奨励したこともあり、この標語は革命の終息と共に徐々に見捨てられていった[9]
後世

この標語は共和国の方針そのものと共に損われた――第一帝政復古王政の期間はこの標語は姿を消し、1830年の7月革命で再び姿を現す。それからは、革命家たちによって繰り返し権利として要求されるようになる。共和国の原理としての認知に大きく関与したピエール・ルルーのほか、アレクサンドル・ルドリュ=ロラン(フランス語版)やフェリシテ・ド・ラムネーなどである。テオドール・デザミ(フランス語版)とジャン=ジャック・ピヨ(フランス語版)を中心とするベルヴィルの共産主義者たちによる最初の饗宴でも、友愛が「共同体」の創設を支えるのに寄与する限りにおいてという条件でこの標語は承認された[10]1848年のフランス革命に伴い、1848年2月27日にルイ・ブランによってこの標語は第二共和政の正式な標語とされた。

しかしながら、共和国はもう一度分裂する――1848年の労働者蜂起の鎮圧と帝政の復活はこの3語の哲学と射程を再び疑問に付した。

1880年になりようやく全ての公共施設のペディメントにこの標語が掲示されるようになる。第三共和政において、この標語は共和国の公式な象徴として採用された[11]「労働、家族、祖国」と刻印された1943年の2フラン硬貨

ヴィシー政権はこの標語を「労働、家族、祖国」に置き換えた。自由フランスにおいては「自由、平等、友愛」の標語は1年ほどの間は「政治的」であるとして時勢的な理由から避けられていたが[12]、1941年の秋からは再び掲げられるようになった[13]

20世紀半ばには、この標語は1946年憲法の発布と共にフランス共和国の歴史に恒久的に刻まれた。

1948年国際連合総会で採択された世界人権宣言の第1条にもこの標語の精神が継承された。全ての人間は生まれながらに尊厳と権利において自由にして平等である。人間は理性と良心を授けられており、互いに友愛の精神をもってふるまうべきである。 『世界人権宣言』第1条
それぞれの語が持つ意味政教分離法を受けて1905年に国有教会ティンパヌムに掲げられた銘
自由

1789年の人間と市民の権利の宣言自由をこう定義している――自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行うことができるということである。よって、各人の自然権の行使には、それが社会の他の人々が同じ諸権利を享受することを保証するもの以外には限界がない。こうした限界は法によってのみ決定される。

1793年の人間と市民の権利の宣言では定義はこう修正されている――自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。その倫理的な限界はこの格言にある通りである――己の欲せざる所は人に施すなかれ。

「自由に生きるか、さもなくば死を」は共和国の重大なスローガンであった。
平等

標語の2番目である「平等」は法が全ての人民に対して同じであり、生まれや身分による差別は廃止され、全員がその資力に応じて国庫に寄与しなければならないことを意味する。1793年の人間と市民の権利の宣言はこう宣言している――全ての人間は生まれながらにして平等であり、法の下で平等である。

1795年の人間と市民の権利と義務の宣言(フランス語版)では――平等とは、保護を与えるにせよ、罰を与えるにせよ、法は全ての人間に対して同一であるということである。生まれによるどのような差別も、また権力のどのような世襲も許されない。

平等にもやはり社会的な側面があり、ロベスピエールによれば、平等は祖国と共和国への愛から生じ、それは極端な富の偏在を許さないからである。共和国の創設者にとっては、「平等」は世襲を廃し、各人が仕事を持ち、課税累進的なものであることを要求するものであった。要するに、サンキュロット労働者)の平等はブリッソー派ブルジョワジー)の平等とは異なるものであった。ジャン=ジャック・ルソーは平等を、自由と不可分なもので、いかなる市民も他の市民を金で買うほど豊かであってはならず、またいかなる市民も自らを売らざるを得ないほど貧しくあってはならない。

という主題として定義した[14]
友愛ベトナムホー・チ・ミン博物館にある「自由、平等、友愛」の展示。フランスの植民地支配下で拷問されたベトナム人たちの写真と重ね合わされている。

標語の3番目である「友愛」は、共和暦3年憲法の前文である1795年の人間と市民の権利と義務の宣言でこう定義されている――己の欲せざる所は人に施すなかれ。常に、自分がされたいと思う善事を他者に施すように。

フランス革命の間は、「友愛はフランス人のみならず外国人も含め、自由と平等の実現と維持のために戦う全ての者を抱擁するという十全な使命を持っていた。」[15]

哲学者で、『エスプリ』誌の元編集長のポール・チボーによれば[16]、自由と平等が権利として受け取られうる一方で、友愛は各々が他者に対して負う義務である。よって、これは倫理的なスローガンなのである。

つまり、友愛とは他者に対する親愛の念というだけではない。

社会・共同体への義務・奉仕を意味するのである。
脚注^ a b棚沢直子 グローバル化時代の国家アイデンティティ —日仏比較— 名古屋大学大学院国際言語文化研究科 日仏二国間セミナー「グローバル化で変化する日仏の国家アイデンティティージェンダー関係、社会格差」2007年11月3日-4日
^ モナ・オズーフ, Liberte, egalite, fraternite, in Lieux de Memoire (dir. Pierre Nora), tome III : Les France. De l'archive a l'embleme, ed. Quarto Gallimard, 1997, pp.4353-4389
^ 小林 1969, p.214


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