自由フランス軍
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他にはフランス外人部隊モロッコ人、アルジェリア人、タヒチからも集められていた。このため、1944年までパリを見たことのない者が多かったという。

1940年の対独戦では、セネガル人は約17,000人が戦死し多くが捕虜となっていた。白人だけで師団を編制することは困難であり、戦うためには西アフリカからの徴集兵が不可欠であった。また第2機甲師団は黒人で編成される部隊が25%に及んでいた。

1940年の対独戦終了時点で、イギリスにはフランスを脱出した海軍と空軍、それにダンケルクとノルウェーから撤退した陸軍の残余がいたが、休戦を成立させたヴィシー政権に忠誠を誓った者もいたため、この全てが自由フランスに合流したわけではなかった。自由フランスはまず自らの存在をフランス国民と連合国軍に認めさせることが必要であり、その第一歩としてまず領土の確保、具体的にはヴィシー政権軍の守りが手薄なアフリカ植民地の占領を最初の行動目標とすることになった。
ロレーヌ十字

ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリューロレーヌ十字を自由フランス軍のシンボルとして採用することを進言した。

エミール・ミュズリー提督率いる艦隊は、ロレーヌ十字をあしらった軍旗を使用し始める。1940年7月末までに約7,000人が自由フランス軍に志願した。

このころの自由フランス海軍イギリス海軍の補助的任務に応じ、艦艇50隻と人員3,700人が活動していた。
メルセルケビール

詳細はメルセルケビール海戦を参照

イギリス首相ウィンストン・チャーチルは態度不明なヴィシー政権が艦隊をドイツ軍に引き渡す危険があると考え、フランス艦隊を攻撃した。この攻撃の結果、多くのフランス人がイギリスに嫌悪感を示すようになり自由フランスへの志願を思いとどまるものが増えた。
植民地確保の戦い

休戦後、アフリカ植民地ではカメルーンフランス領赤道アフリカガボンを除く)が自由フランスに加わった。

1940年7月から11月まで西アフリカ作戦においてヴィシー政権派の部隊と交戦する。だがダカール沖海戦を含む一連の戦いで自由フランスは撃退され、西アフリカ植民地はヴィシー政権に忠誠を誓ったままとなる。

アジア太平洋地域ではニューカレドニアフランス領ポリネシアおよびニューヘブリディーズ諸島がのちに加わる。フランス領インドシナは名目上はヴィシー政権の支配下とされたが1940年から41年にかけて日本に占領(仏印進駐)され、1945年春には完全に制圧(明号作戦)され、以後日本の敗戦までそのままとなった。

北アメリカでは、サンピエール島・ミクロン島が1941年12月24日に自由フランス海軍のコルベット3隻および大型潜水艦「スルクフ」を含む艦隊の圧力により自由フランスに加わる。

1941年、エチオピアエリトリアなどのアフリカの角で、イタリア軍と交戦する。その後、レバント方面に向かいフランス委任統治領シリア(現在のシリアレバノン)でイギリス軍などとともにヴィシー政権軍を攻撃[1]。同年7月12日に成立した停戦協定をもってアンリ・デンツ将軍率いるヴィシー政権軍に勝利したが、捕虜の多くはフランス本土への帰国を希望した。カトルー将軍がレバント高等弁務官に任命される。

1942年6月、北アフリカ戦線ではケーニグ将軍率いる外人部隊を含めた第1自由フランス旅団ビル・ハケイムの戦いで敢闘の末撤退する。同年11月には連合国軍の上陸作戦(トーチ作戦)が実施され、フランソワ・ダルラン元帥率いる現地のヴィシー軍はほぼ全てが降伏しアンリ・ジロー将軍率いる自由フランス軍と合流した。一時はダルランがアフリカ植民地全域を支配し、自由フランスの主導権も握りかねない情勢だったが、12月にダルランが暗殺されると権力はジロー、そしてド・ゴールへと移っていった。

1942年後半のマダガスカルの戦いののち、ルージョンティオム将軍がマダガスカル高等弁務官に任命される。


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