自由の鐘
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19世紀中、自由の鐘は1804年アレクサンダー・ハミルトンの死を、1824年にフィラデルフィアへのラファイエットの帰還を、1826年ジョン・アダムズトマス・ジェファーソンの死を、1832年ジョージ・ワシントンの生誕100周年記念を、そして1834年ラファイエットの死、1835年ジョン・マーシャルの死、1841年ウィリアム・ハリソンの死を、それぞれ告げるために鳴らされた。

1839年ウィリアム・ロイド・ギャリソン著の奴隷制反対を訴えた出版物「ザ・リベレーター」のパンフレットが増刷され、その中に「ザ・リバティ・ベル」と題した詩が載せられた。これは出版物において初めて、自由の鐘を意味する「リバティ・ベル」という名称が使用されたものとして知られている。

2回目にひびが入ったのがいつであるか確かではないが、鐘は1846年2月に修理されている。その修復の方法はストップ・ドリリングとしても知られているが、亀裂の端が広がらないように割れ目に沿って穴を開けていく手法だった。

1846年2月22日、自由の鐘はジョージ・ワシントンの誕生日を祝って、独立記念館の尖塔で数時間に渡って鳴らされた。しかし、鐘が鳴らされた際、修復された割れ目部分の上部から鐘の冠の部分まで亀裂が広がってしまい、使用不能になってしまった。現在もその表面に痛々しく残るその亀裂は世間一般に信じられている説に反し、修復が施された痕跡であって当時できた割れ目そのものではない。

1852年、鐘はそれまで吊り下げられていた尖塔から移動され、独立記念館内の「独立宣言室」に展示されることとなった。その合間、1876年にフィラデルフィアへの寄贈品として「100周年記念の鐘」と題したレプリカが贈られ、この新しいレプリカが代わりに独立記念館の尖塔に取り付けられた。

1885年から1915年まで、自由の鐘は数多くの都市を訪れ、国際博覧会でも展示された。
20世紀と21世紀中の歴史

自由の鐘は1902年サウスカロライナ州での博覧会へ向けて運ばれていたが、運送していた機関車が別の車両と衝突し、その後に脱線してしまう事故に巻き込まれた。その後1930年代に、鐘をあちこちへ移動させるにはあまりにも危険であるとの結論が下され、この慣行は終わりを告げた[1][2]

1976年1月1日、アメリカ独立200周年記念期間中に増加すると思われる観光客を予期して、自由の鐘は再び独立記念館から1ブロック北側(フィフス・ストリートとマーケット・ストリートの南西の角にあたる場所)に位置するガラス・パビリオンに移された。この小さく、質素なパビリオンは訪れる観光客からあまり人気が無いことがわかり、これが最終的に2003年に開場となる、より大きなパビリオン創設の計画へと至らしめることとなった。また、同じく1976年にはイギリスエリザベス2世がフィラデルフィアを訪れており、最初に鋳造を担当したホワイトチャペル社製のレプリカ「200周年記念の鐘」を、アメリカ合衆国民への寄贈品として進呈した。この時贈呈された鐘は現在、独立記念館近隣に位置する鐘楼に吊り下げられている。

1996年4月1日ファーストフード店タコベルニューヨーク・タイムズ紙とフィラデルフィア・インクワイアラー紙の一面広告を使用して、「国の負債を減らす」ため自由の鐘を購入し、新たに「タコ・リバティ・ベル(タコスの自由の鐘)」と名付けたと報じた。これにエイプリル・フールの冗談であるとすぐにはわからなかった多くの人々が抗議する騒ぎとなった[3]

2001年4月6日ネブラスカ州から放浪して来たと自称する男が、ハンマーで自由の鐘を数回叩きつける事件があった。彼は「神は生きている!」などと叫びながらハンマーで4回鐘に打ち付けたという。行為を行った理由は自分のアメリカ合衆国からの独立を宣言する為であったなどと供述しており、鐘を破壊し外観を損ねるためではなかったと話した。修復後、彼の打ち付けたハンマーの跡は見えなくなった。

2003年10月、自由の鐘は南西側近隣に新しく建設されたパビリオン、リバティ・ベル・センターへ移動された。この建造物の建設地の選定を巡っては、かつてジョージ・ワシントンが1790年代に住んでいたところからちょうど南にあたる場所であったため議論を呼んだ。当初の計画の後、建造物の建設予定地はワシントンに仕えていた奴隷達の為に用意されていた場所の近辺に決定した。

2012年の時点で、自由の鐘はシックスス・ストリートとチェストナット・ストリートの北東の曲がり角に位置している。新しく設立された国立憲法センターは北へ2ブロック先に位置し、独立記念館はちょうど通りを渡った先、フィフス・ストリートとシックスス・ストリートの間のチェストナット・ストリート南側に位置している。フィフス・ストリートとマーケット・ストリートの南西側の曲がり角にある、以前に自由の鐘を収容していたパビリオンは、鐘が移された後は取り壊しのコストを抑えるために競売にかけられた。しかし、オークションでの反応は薄く、その後は独立記念館の内外を訪れる観光客の治安を守る警備施設へと作り変えられた。

自由の鐘を収めるリバティ・ベル・センターは、アメリカ国立公園局が管理する独立記念国立歴史公園の一部である。
記載事項・構成

自由の鐘は70パーセントが、25パーセントがスズ、残りは他の微量な金属で構成されている。周囲の長さは3.7メートル(12フィート)である。重量は元々943キログラム(2,080ポンド)あったが、フィラデルフィア市の情報によれば、現在は932キログラム(2,055ポンド)であり、これは内側の縁が悪意を持った人間により11キログラム(25ポンド)も彫り取られてしまった結果であるという。鐘の頚木はアメリカニレの木で作られている。
自由の鐘のレプリカフランクリン・ハーフ・ダラー(50セント硬貨)の表面に描かれている自由の鐘。

ナショナルリーグに所属するフィラデルフィア・フィリーズ本拠地のシチズンズ・バンク・パークには、自チームの選手が本塁打を打った時や試合に勝利する度に、光り輝いて前後に揺れる巨大なネオン灯の自由の鐘がある。


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