自由が丘
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九品仏駅は、地名より衾(ふすま)駅に改称することとなったが、石井らが地元の要望を受けて「自由ヶ丘駅」と改称した[12][11][13][14]

自由ヶ丘学園の名称は駅名として取り入れられるだけでなく当地の通称としても定着し、1932年(昭和7年)6月に碑衾町は大字衾の7つの(谷畑中、谷畑西、谷灰野良、谷山野、谷向下、谷権現前、谷鷺草)を統廃合して大字自由ヶ丘を新設。同年10月1日東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となった。

『自由が丘商店街史』によると第二次世界大戦期、憲兵隊から「自由」を冠した地名を改めるよう求められたが、地元住民は応じなかった[13]

1965年(昭和40年)の住居表示施行時には「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。

自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、鉄道開通後は急速に発展し、文化人や芸能人が住居を構えた。1933年に創業されたモンブラン(日本初の、モンブランを製造販売する洋菓子店)に文化人が集まったことで、「高級志向」の街といった認識をされるようになった[15]。駅前は初め20軒ほどの商店街があるのみであったが、戦後の復興にあたって駅前広場を設置し、1956年(昭和31年)には537軒もの店が構えられるようになり[14]、1963年には自由が丘商店街振興組合(後述)が設立された。1970年頃には町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている。春の熊野神社

1974年に九品仏川は暗渠化され、九品仏川緑道として整備された。2000年頃からは雑誌の取り上げられ方にも変化が見え、親しみやすさや庶民派というフレーズも見られる街となってきている[16]
町名の由来

その字義通り「自由の丘」という意の瑞祥地名である。前述のように、地域内に設置された自由ヶ丘学園および、それに因んで改称された自由ヶ丘駅に因み「自由ヶ丘」となった。その後、「自由が丘」に改称された。大正、昭和初期に活躍した舞踊家の石井漠が、この地に舞踊研究所を開き、その際「自由ヶ丘」の地名を最初に名乗ったとされている。
町名の変遷

実施後実施年月日実施前(各町名ともその一部)
自由が丘一丁目1965年1月1日自由ヶ丘、緑ヶ丘の一部
自由が丘二丁目自由ヶ丘の一部
自由が丘三丁目

経済ラ・ヴィータ 自由が丘 01ラ・ヴィータ 自由が丘 02(手前にゴンドラ)
産業
店・企業


亀屋万年堂

シェルガーデン

自由が丘デパート

自由が丘とうきゅう

大丸ピーコック

金融機関


みずほ銀行自由が丘支店

三井住友銀行自由が丘支店

横浜銀行自由が丘支店

さわやか信用金庫自由が丘支店

城南信用金庫自由が丘支店

三菱UFJ銀行自由が丘支店

商業施設


トレインチ自由が丘

自由が丘東急プラザ

Luz自由が丘

その他


Youth Theatre Japan (YTJ) 自由が丘スタジオ

商業


栗山銀右衛門(漬物製造問屋[17]漬物[18][19]

農業


『日本紳士録』によると、栗山姓の農業を営む人物がいる[19][20]

地主

『日本紳士録』によると、自由が丘の地主は、栗山姓の人物がいる[17][18][20]
世帯数と人口

2021年令和3年)4月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
自由が丘一丁目1,550世帯2,619人
自由が丘二丁目1,477世帯2,647人
自由が丘三丁目1,233世帯2,237人
計4,260世帯7,503人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[21]

丁目番地小学校中学校
自由が丘一丁目1?19番
24?31番目黒区立緑ヶ丘小学校目黒区立第十一中学校


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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