アリストテレスが語るところによれば、自然についての哲学的思索を行った最初の人物はタレースである。タレースというのは「なぜ?」哲学の最初の人とされ、自然学の最初の人ともされる[2]。アリストテレスが語るところによれば、彼は《アルケー》(原理、原素、はじまりなどと訳される)は何か?と問うたとされる[2]。そしてタレース自身はその問いの答えとして「水だ」と答えた、とアリストテレスはする[2]。
アナクシマンドロスはアルケーは「ト・アペイロン(限りないもの)」とし[2]、アナクシメネース
は「空気だ」と言ったという。ヘラクレイトスは火がアルケーだといった、とされる[2]。こうした考え方は一元論的だともされる[2]。(もっとも、これらの人物たちが、本当にそうしたアルケーという問いとそれに対する答えを出したわけではなく、それを語ったアリストテレスという人物が、ものごとをそうした見方で見る人だったので、そういう描写になったのだろう、とも指摘されることがある)。フランスのブレーズ・パスカルは、人間を天使と獣の間に位置づけ、超自然と自然との中間者として人間を位置づけた[3][2]。 18世紀ごろから広まった自然科学では、人間にとって大切な《意味》や《心》的なものを排除するような方向で進んできてしまったことは、多くの学者によって指摘されている。 自然科学がそうして、意味を排除してきてしまったため、そこにおける自然観というのは、内容がすっかり貧弱になった。例えば、自然科学の自然観というのには倫理的な要素がすっかり欠落してしまっている[2]。 自然科学を信仰する人は、自然哲学を時代遅れだなどと見なすことがある[2]。だが事態はそう簡単ではない。自然科学的な思考でものごとをごり押ししてしまった結果、環境問題が起きてしまった[2]。これについて自然科学では根本的反省も行われないし、是非善悪についての詳細の規定もたてられない[2]。 環境問題のように、人間の生きざまの問題は、道徳や倫理、つまり哲学的なことに関係がある以上、こうしたことがらを扱う時には、自然科学的な思考を当てにするのではなく、哲学的に考える必要があるのである[2]。 生物学、特に生態学など、自然に深くかかわり野外研究的な活動を長年続けてきた人が、自然に関するその信条を述べるのに「自然観」の語を使う例もある。たとえば今西錦司は『私の自然観』(講談社文庫、1978年)を出版している。
自然科学
個人的なもの
現代における自然哲学
出典・脚注^ Droz, Layna; Chen, Hsun-Mei; Chu, Hung-Tao; Fajrini, Rika; Imbong, Jerry; Jannel, Romaric; Komatsubara, Orika; Lagasca-Hiloma, Concordia Marie A. et al. (2022-05-31). “Exploring the diversity of conceptualizations of nature in East and South-East Asia”
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 今道友信『自然哲学序説』講談社学術文庫、1993年。