アメリカは、フォードによって自動車をいち早く大衆化させたことから、よりカジュアルで商業主義的な文化が目立つ[31]。特にその傾向は戦後になってから顕著に表れはじめ、1940 - 1950年代における、ドラッグレースやストックカーといった単純明快なルールを持つ自動車レースの誕生は好例である。また、人種の多様性から多地域の自動車文化が数多く混在していることも特徴の一つである。それはカスタム文化に顕著に表れており、白人由来のホットロッド、メキシコ系由来のローライダー、アジア系由来のスポーツコンパクトなどがある[39]。自動車の美しさを競うコンテストや展示会も世界的な規模で開催される。ただし、いずれも大衆性やエンターテインメント性を意識したものであることは確かであり、権威主義的な面は少ない[31]。また大量生産方式から生まれたインダストリアルデザインは、後の自動車デザインにおける核となり、「自動車の消費」という概念を誕生させることになる[40]。
日本日本人初のレーサー、大倉喜七郎男爵。日本初のオーナーズクラブ『日本自動車倶楽部』(1910年)の創設にも貢献し、日本における自動車文化の基礎を作った[41]。
日本の自動車文化は、明治 - 大正期にかけて欧化主義の名残があったことや、20世紀半ばまで華族制度が存在したこと、また同じく20世紀半ばまで大衆車が普及せず上流層のみしか自動車を所有できなかったことなどの理由から、必然的にヨーロッパにおける文化形成と似た道を辿ることとなった。これは自動車に限らず、ゴルフ、テニス、乗馬など当時輸入された西洋由来のハイカルチャーはみな同様の過程を経た。
1898年1月、日本に初めて四輪自動車が渡来したとされる(諸説あり。日本への自動車の渡来を参照)。1902年、川田龍吉男爵が横浜でロコモビル社製の蒸気自動車スタンレー・スチーマーを購入、通勤で乗るなど個人的に使用した。ここで川田は日本初のオーナードライバー(自家用車所有者)になったされる[42]。1907年には、美術品コレクターで冒険家の英国人トーマス・ベイツ・ブロウ[43]が1904年製のスイフト7HPで京都から軽井沢を目指す自動車旅行を敢行したことが記録されている[44]。1908年8月1日には、皇族の有栖川宮威仁親王が「ダラック号」(Darracq )を先頭にガソリン自動車を連ねて遠乗り会を敢行、その目的地は谷保天満宮であり、これが日本初のドライブツアー(カーミーティング)とされる[45]。1907年7月6日、大倉財閥一族の大倉喜七郎男爵は、英国ブルックランズ・グランプリでフィアットを駆り2位に入賞、ここで大倉は日本人初のレーサーとなった。その3年後の1910年には、大倉を中心に日本初のオーナーズクラブ『日本自動車倶楽部』が結成される。事務局は帝国ホテルに置かれ、会長に大隈重信、メンバーには大倉喜七郎、伊東巳代治、寺内正毅、後藤新平、渋沢栄一、尾崎行雄といった政財界の名士が名を連ね、欧米各国の大使、公使も参加、このクラブは一大サロンとなった[46]。当時の自動車所有者はほとんど入会したためにその影響力は大きく、自動車税の決定など行政的な業務も行なった[46]。
その後も華族やエスタブリッシュメントのハイカラたちを中心に、日本の自動車文化は形成されていった。戦前の著名な自動車愛好家に、三井高公、細川護立、鍋島直泰、小早川元治、福澤駒吉、白洲次郎、藤山一郎などが知られている。戦後に入ってもなお、伝統的な西洋式の自動車趣味は多くの人物によって継承され、失われることはなかった。小林彰太郎、式場壮吉、福澤幸雄、徳大寺有恒、夏木陽介などは、そういった際に名が挙げられる著名人である[34][47]。中でも自動車評論家の小林彰太郎は、自身がライオン創業者の一族出身でありながらも自動車評論家を生業とし、1962年に雑誌『CARグラフィック』(現・カーグラフィック)を創刊。