腕時計
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ハミルトンブライトリングが軍用腕時計を大量生産するようになり[12]、男性の携帯する時計は懐中時計から腕時計へと完全に移行した。戦後には多くの懐中時計メーカーが腕時計の分野へ転身した。

第二次世界大戦以前からの主要な腕時計生産国としては、懐中時計の時代から大量生産技術と部品互換システムが発展していたアメリカ合衆国のほか、古くから時計産業が発達したスイスイギリスドイツなどがあげられるが、後にイギリスのメーカーは旧弊な生産体制が時流に追いつかず市場から脱落し、ドイツのメーカーは廉価帯の製品を主体とするようになった。アメリカのメーカーも1960年代以降に高級品メーカーが衰亡してブランド名のみの切り売りを行う事態となり、正確な意味で存続するメーカーは大衆向けブランドのタイメックスのみとなった。

スイスでは時計産業が膨大な中小零細企業群による分業制に基づいて形成されており、廉価品から高級品まで広い価格帯の製品を供給することができた。業界全体の連携が進み、1920年代以降は産業防衛目的のカルテル構築が本格化、1934年にはスイス連邦政府が政令による時計産業保護(ムーブメント部分のみの輸出に起因する国内時計産業の空洞化防止や、他国の時計産業伸長を防ぐ目的の時計製造機械の輸出管理など)に乗り出した。スイス時計産業の独特な構造は1960年代までスイス時計の国際競争力を維持し、最盛期には自社でムーブメントを製造できる一貫生産メーカー(マニュファクチュール)のほか、多数のムーブメント専業メーカーに支えられた有名無名の膨大な時計ブランド(エタブリスール)を擁した一方、業界全体の近代化では後れを取る結果となった。

なお、スイスメーカーのムーブメントを部品として輸入して、ケース製作と最終組み立てのみ輸入国で行うノックダウン生産手法の一種「シャブロナージュ」(chablonnage)は、関税抑制の目的で懐中時計時代の19世紀末から見られ、腕時計主流の時代になっても盛んに行われた。20世紀に入ってからはアメリカの大手時計メーカーの一部が、スイスに自社現地工場を置いてムーブメント生産を行い、人件費を抑制(当時、大量生産技術をもってしてもアメリカ本国の人件費はすでに高くついていた)しつつスイス時計業界・スイス政府の利益逸出政策を回避する動きも生じた。ジャガー・ルクルト製自動巻腕時計の内部
自動巻腕時計セイコー・プレスマチックのムーブメント。上部に回転式ローターが見える

自動巻腕時計(Automatic watch)とは、時計内部に半円形の錘(ローター)が組み込まれており、装着者が腕を振ることにより錘が回転し動力のぜんまいを巻き上げるものである。錘を仕込んだ自動巻機構自体は懐中時計用としてスイスのアブラアン=ルイ・ペルレ(英語版)により1770年ごろに発案されていたが、ポケットに収まった安定状態で持ち運ばれる懐中時計よりも、手首で振られて慣性の働きやすい腕時計によりなじむ技術であった。それに対してブレゲは振り子による自動巻き「ペルペチュエル」を開発したが、構造が複雑だったため一般には普及せず、19世紀の懐中時計のほとんどは鍵巻きおよび、パテック・フィリップの創始者の一人であるアドリアン・フィリップ(英語版)が1842年に発明した竜頭による手巻きであった。

最初の実用的な自動巻腕時計となったのはイギリスのジョン・ハーウッド(英語版)が開発した半回転ローター式(ローターの片方向回転時のみでぜんまいを巻き上げる)で、1926年にスイスのフォルティスから発売された。続いてより効率に優れる全回転式ローター自動巻(ローターの回転方向を問わず歯車機構の組み合わせで一定方向の回転力を取り出し、ぜんまいを巻き上げられる)がスイスのロレックスで1931年に開発され、同社は「パーペチュアル」の名で市販、オイスターケースと呼ばれる防水機構とともにロレックスの名を広めた。

初期のロレックス自動巻に代表される手法の弱点は、ローターの存在する分、手巻式ムーブメントに比して厚手でかさばってしまうことで、主要な時計メーカーは自動巻ムーブメントの改良過程で、薄型化と簡略化、効率良い動力の取り出し方を試行錯誤した。片方向回転式や、オメガの一部機種のようにローターの回転幅を制限した過渡的なモデルなども見られたが、1950年代以降は大幅に薄型化された両方向全回転式ローターの自動巻が本命となって普及、現在の自動巻腕時計では全回転ローター式が一般化している。また、ローターの形状もペルレの時代の半円状から、外周部になどの重金属を使用したり中抜きした形状にするなどして回転効率を向上させている。

自動巻腕時計の多くは竜頭を用いてぜんまいを手巻きすることもできるが、構造を簡素化する目的で自動巻専用としたものもある。自動巻は装着されている間ぜんまいの力が適度な程度に蓄えられ、手巻き式に比べて精度が高くなる傾向がある。身に付けていない場合にはワインディングマシーンにセットしておくことでぜんまいを巻き上げておけるため、機械式腕時計の収集家がその種の装置を用いる例が見られる。
日本の腕時計

日本では1913年服部時計店が国産初の腕時計「ローレル」を発売しているが、その7石ムーブメントは懐中時計との共用品であった。サイズの制約が厳しい腕時計の技術でスイスやアメリカの製品に比肩することは容易でなく、日本製腕時計への評価は当の日本でも第二次世界大戦後まで決して高くなかった。1957年時点でも日本の腕時計市場ではスイス製品が大いに幅を利かせ、スイス時計は年間で約200万個程度が流入していたが、そのうち正規ルートで輸入されたのは30万個程度であとの大部分は密輸入だったという[13]。上級価格帯ではオメガロンジン、廉価品ではエニカ、ジュベニア、シーマといったスイス系銘柄の人気が高かった。

それでも1950年代以降、日本の腕時計の技術は着実に進歩して国内の廉価帯市場では輸入品を圧するようになり、1960年代以降はカメラと並ぶ主要な輸出商品となった。手巻きロービート式が標準であった当時、上位2ブランドから送り出されたセイコー「マーベル」(1956年発売)、シチズン「ホーマー」(1960年発売)は、共にスイス製腕時計を参考にしつつも、高精度と自動生産化を両立させるための構造合理化・パーツ大型化などが試みられ、両社の技術的なターニングポイントとなった製品である。1955年には国産初の自動巻腕時計「セイコーオートマチック」が発売され、その後も「グランドセイコー」(1960年)、「シチズン クロノメーター」(1962年)など、スイス製に匹敵する精度の国産時計が登場した。耐震機能や防水機能の装備、自動巻きやカレンダー機構の導入も急速に進行した。1964年には東京オリンピックの公式計時機器としてセイコーが採用された。セイコーは電子計時を採用し、これを契機に日本製腕時計が世界的に認められるようになる。

日本の主要な腕時計メーカーは、電卓分野からエレクトロニクス全般に成長した総合メーカーであるカシオ計算機を除くと、すべて懐中時計や柱時計の分野から参入した企業である。セイコーとシチズン時計、カシオの3社が主要大手メーカーである。機械式腕時計時代の国産第3位であったオリエント(吉田時計店→東洋時計が前身)は業績不振から現在はセイコーエプソン傘下にて存続する。リコーエレメックスは柱時計メーカーに起源をもつ旧・高野精密工業の後身で、1957年から「タカノ」ブランドで腕時計を生産したが、中京圏に本拠があったため1959年の伊勢湾台風で大被害を受けて業績悪化、1962年にリコーに買収され、のち腕時計ブランドもリコーに変更したが、2021年頃に腕時計事業から撤退した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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