著名脱北者には申東赫・姜哲煥・安赫・金恵淑などがおり、強制収容所を始めとした北朝鮮の壮絶な実情の証言が確認されている。 かつて北朝鮮を脱出して韓国に亡命してくる者は、大抵が政治的な理由で故郷を追われた人々であった。特に1945年の連合軍による分割占領から1953年の朝鮮戦争休戦協定締結までの混乱期にはおびただしい数の移動があり、1000万人とも言われる離散家族が生まれることとなった。その後、冷戦下で北朝鮮の政治体制は安定化し、亡命者は激減した。なお、韓国は1980年代まで厳しい反共産主義の軍部独裁政権が国を統治していたため、北から逃れてきた人はまず偽装亡命してきたスパイでないか徹底的に取り調べられ(現実に多数のスパイが対南工作のため韓国に潜入していた)、拷問もされたという。 1990年代から、脱北者に対する措置が寛大化すると、次第に脱北者の韓国亡命が増えていく。1993年に北朝鮮で大水害が発生し、以降水害と旱魃が毎年のように発生、深刻な食糧難が報じられるようになると、大飢饉が報じられた1995年から徐々に亡命者が増え始め、2002年には遂に年間1,000人を超えた。2004年には韓国に亡命した脱北者が朝鮮戦争後からの累計で6,000人を超え、2007年2月16日には遂に1万人を超えたと韓国統一部当局者が明らかにした[4]。ただし、2011年に北朝鮮最高指導者の金正日が死去し、金正恩が最高指導者の座についてからは亡命者の数が減少傾向にある[5]。更に2020年1月に新型コロナ感染症流行に対する対策の一環で中国側の国境を閉鎖したことにより、2020年の韓国への脱北者が前年の4分の1以下と激減した(韓国への脱北は、最初に中国に入り数年過ごした後、第三国を経由して最終的に韓国に向かうのが一般的である)。そして、新型コロナ感染者が中国から北朝鮮へ侵入されないよう侵入者への射殺命令も下されている[6]。 また脱北後、いったん韓国で生活してから、韓国人として日本に入国し、日本で生活する者もいるという。ほとんどが女性でその数1000人以上だといわれている。日本に直接渡った脱北者は、2013年2月時点で、約200人と考えられている[7]。 なお、脱北者の潜在的な数は数十万人になると推測されているが、正確な数は不明である。 2016年、韓国統一部は、韓国に入国した脱北者の累計が3万人を突破したと発表した。また、経済的な理由から脱北を決意した脱北者の割合は年々低下しているとされる。北朝鮮での生活水準が中級もしくは上級であったと答える脱北者の割合も、2005年まででは13.7%だったのが、2014年から2016年にかけては66.8%に伸びた[8]。また、近年では海外でYouTubeを見て脱北を決断する者も出てきている[9]。 兵士の一部には38度線(軍事境界線)を直接越境するものもいるが、衛兵や高圧電線、地雷原に阻まれ、途中で命を落とす事が多いため、決して主流ではない。漁船での集団亡命も朝鮮戦争直後は数多く行われていたが、長く姿を消していた。 主なルートは、中華人民共和国への脱出が多いとされる。中国と北朝鮮の国境には、国境警備兵と呼ばれる兵士がかなりの数で見張っているが、大半の兵士は自身も生活が苦しいので賄賂などを渡したり、あるいは彼らの目を盗んで脱出する者が多いとされる。大抵は川幅が狭く、冬季に凍結する豆満江(図們江)を渡り、延辺朝鮮族自治州の朝鮮族に匿われる。 しかし中国当局は北朝鮮との外交関係を重視して、脱北者を難民とは認めておらず、発見次第不法入国者として北朝鮮に送還する協定を両国で結んでおり、これにより脱北者は中国内では潜伏生活を送る。摘発され、北朝鮮に送り返されると、初犯の場合は労働や思想改造などの処置を受け、再犯では死刑となる場合もあると語られている。 うまく中国への潜入に成功した者の中の一部は、韓国などから支援があったり、各国大使館や外国人学校などに逃げ込み、助けを求める(外国メディアはこれを「劇場型亡命」と名づけた)。その後、多くが同胞の韓国に亡命する。 モンゴル経由の亡命もあったが、近年は国境付近での中国側の摘発が厳しくなっており、中国には長く潜伏せずに通過し、東南アジア経由(ベトナム、タイ、ラオス、ミャンマー等)やカザフスタン経由で第三国に亡命する人が増えている。
脱北理由
亡命ルート