脇坂安政
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その後、城下町の整備も進め、現在のたつの市[4]の原型を作り上げた。しかし、脇坂家時代の龍野の城下町は、規模でいうと26万石の大名であった京極時代の城下町と比べて大きく縮小しており、城下町の中心部を集中的に整備し発展させたといえる。その他、現在もたつの市の名産である「薄口醤油」の生産を奨励するなど、龍野藩の発展に尽くす。

延宝6年(1678年)、安政は嫡子の安村を多病を理由に廃嫡し、五男の安照を嫡子とした。しかし、安村は廃嫡されるまでに既に4代将軍・徳川家綱への拝謁と叙任を終えていたため、反感を募らせていたと思われ、直接行動に出た。天和2年(1682年)、安村は譜代である近江国彦根藩主・井伊直興に直談判に出たが、面会を拒否され、続いて上野天真法親王に直訴した。しかしこれは裏目に出て、これを聞いた幕府は激怒し、安村の身柄を小浜藩主酒井忠隆に預け、19年余り幽閉された[5]

天和3年(1683年)、安政は実家が譜代大名の堀田家であることを理由として、脇坂家を外様から譜代へと扱いの変更を幕府に申請し、許しを得た上で江戸城での伺候席が譜代の帝鑑間詰となり、外様から「願譜代」となる。貞享元年(1684年)、安照に家督を譲り、隠居して如水と号した。

元禄7年4月20日(1694年5月13日)、龍野にて死去した。享年62。
系譜

父:
堀田正盛(1609年 - 1651年)

母:あぐり - 酒井忠勝五女

養父:脇坂安元(1584年 - 1654年)

正室:松仙院 - 松平康映の娘

長男:脇坂安村(1656年 - 1706年)


側室:月光院 - 今井総十郎の娘

五男:脇坂安照(1658年 - 1722年)


生母不明の子女

長女:世伊 - 有馬清純継室

次女:左牟 - 加藤泰恒正室


脚注^ 後に安政の龍野移封の際には、母方の叔父に当たる若狭国小浜藩酒井忠直に預け替えとなった。
^ 揖東・揖西・三木の三郡。
^ ただし、建物などは明治維新以降に再び破却され、現在見られる建物は昭和54年(1979年)になって順次再建されたものである。
^龍野市
^ 後に許されている。










脇坂家信濃飯田藩2代藩主 (1654年 - 1672年)
小笠原家

小笠原秀政1601-1613

信濃松本藩に転封

1613年から1617年まで幕府領
脇坂家

脇坂安元1617-1654

脇坂安政1654-1672

播磨龍野藩に転封

堀家

堀親昌1672-1673

堀親貞1673-1685

堀親常1686-1697

堀親賢1697-1715

堀親庸1715-1728

堀親蔵1728-1746

堀親長1746-1779

堀親忠1779-1784

堀親民1784-1796

堀親?1796-1846

堀親義1846-1868

堀親広1868-1871

廃藩置県










脇坂家龍野藩初代藩主 (1672年 - 1684年)
本多家

本多政朝1617-1627

宗家の嫡子となり、播磨姫路新田藩主になる

小笠原家

小笠原長次1626-1632

豊前中津藩に転封

1632年から1633年まで幕府領
岡部家

岡部宣勝1633-1635

摂津高槻藩に転封

1635年から1637年まで幕府領
京極家

京極高和1637-1658

讃岐丸亀藩に転封

1658年から1672年まで幕府領
脇坂家

脇坂安政1672-1684

脇坂安照1684-1709

脇坂安清1709-1722

脇坂安興1722-1747

脇坂安弘1747-1757

脇坂安実1757-1759

脇坂安親1759-1784

脇坂安董1784-1841

脇坂安宅1841-1862

脇坂安斐1862-1871

廃藩置県


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