1980年[10]生まれ[3]。音楽プロデューサーの中田ヤスタカとは、同じ生年月日の同郷人である[11][12]。
幼い頃から小学校低学年までおままごとで母、学校ごっこで教師になるなど、年の離れた弟と、基地ごっこして役割を決めて遊んだり自分ではないものになることを楽しんでおりごっこ遊びが好きであった[13]。しかし内向的な性格だったため、好きな遊びは空想だったかもしれないといい、ひとり遊びも全然苦にならない子供だった[13]。本を読むことも好きだったため、ごっこ遊びは延長線上にある感じだったという[13]。幼い頃好きだった本は絵本だったり、図書館にあるような児童書だったと語る[13]。アイドル、アニメなどのキャラクターなどに憧れて真似をするようなことはなかった[13]。両親も無理に活発な子にさせようとするようなこともなく、わりと自然体に育ててくれたという[13]。 小学6年生の時に地域密着型の児童劇団に関わっていた学校の教師に誘いを受けて入団し、約1年続けていた[13]。「みんなの輪の中に入りたい」と思っていたが、中々入れない自分がおり、内向的だというのは自覚していた[13]。ただし、「自分じゃない違う人になれば何でもできるんじゃないかな」とも思った[13][14]。当時は内向的な自分自身があまり好きではなかったが、児童劇団は、「それを何とかできたら」という手段の一つだったと思っていた[14]。児童劇団では基本的な発声練習、滑舌の練習もあり、ちょっとした設定を決めたエチュードのようなものもあり、公演がある場合には台本読みもしていたが、ただ遊んでいる時もあった[14]。ただのその遊びが結果的には芝居にきちんとつながっておりこのことをシアターゲームのようなものであったかもしれないという[14]。児童劇団には全員で15名前後ぐらいいたが、下は小学4年生ぐらいからで、上は中学1年生ぐらいで児童劇団の中は楽しかったという[14]。 1992年、金沢市立馬場小学校を卒業後、金沢市立小将町中学校に進学した。 中学生の時は能登自身と似たタイプの友人が多かった[17]。中学時代は決して友人の数は多くなく、2009年時点でも繋がっている友人もいたが、その頃はとても迷っていた時期だった[14]。その時、「どうしてこういういろんなことが難しいんだろう」、「とにかく生きて行くって、とても難しいことなんだな」と思っていた[14]。
学生時代