能登麻美子
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1992年金沢市立馬場小学校を卒業後、金沢市立小将町中学校に進学した。

1995年北陸学院高等学校に進学[15][16]

中学生の時は能登自身と似たタイプの友人が多かった[17]。中学時代は決して友人の数は多くなく、2009年時点でも繋がっている友人もいたが、その頃はとても迷っていた時期だった[14]。その時、「どうしてこういういろんなことが難しいんだろう」、「とにかく生きて行くって、とても難しいことなんだな」と思っていた[14]。特に人間関係、人との関わり方に悩んでおり、当時も自分自身のことを否定的にとらえていたため、「どうして私はいろんなことができないんだろう」、「どうしてみんなと楽しめないんだろう」、「どうして明るくなれないんだろう」と色々なことを悩んでいた[14]。当時は「もっともっと限られた世界の中にいると感じていたんだ」と思い、家庭、仲間に守られているが、「その世界が私の全てだったと思い込んでいたんだ」と語っている[14]。閉塞感、逃げ場のなさで、一つの人間関係が壊れるのがとても怖いと感じていたという[14]。そこにしがみついたり、折り合いがつかないことで頭をもたげていたり、自分で自分をもてあましていた[14]。そういった悩み事などは自分で抱え、もてあましていたが、友人にはあまり相談したりしていなかった[14]。逃げ場のようなものが必要なため、本や絵を見ていたという[14]。小説家では長野まゆみの本が好きで、他に画集や写真集、美術の教科書なども見るのが好きだった[14]。一方、観るのが好きなだけで知識は全然無かった[14]。出かけられるのは限られた範囲だったが、できるだけ遠くにひとりで出かけたりしていた[17]。あとは普通に友人と遊んだり、ひとりで空想していたりしていた[17]。高校の選択は単純明快で「今の学力で行けるところはどこだろう?」といった感じだった[17]

中学校時代は演劇部で活動していたが、上下関係の厳しさを痛感させられ、演劇熱も一時消えてしまった[14]。進学していた頃は楽しんで活動していたが、1年が経つ頃からほとんど活動のない部活になってしまった[14]。その時は能登と同学年の部員は5、6人はいたという[14]。一応3年間は在籍していたが、先輩が恐かったという印象が強かったことからか演劇部で何かをしたというような実感がなく、発表会もあったと語るが記憶になかった[14]。学園祭の時に、クラスの出し物とは別に、学年単位の出し物で芝居をしていたが、とても楽しく、印象に残っていた[14]

授業では好きな学科などは興味がある分野と興味のない分野がはっきりと分かれていた[14]。好きだったのは国語、社会、図画工作、美術などの文科系、逆に数学、理科は嫌いで英語は未知という[14]

私立の女子高に通い、中学が共学であったことから、全員女性という環境に興味があり友人からは「女子高にするの!?」という反応があったが、能登は逆に抵抗はなかったという[17]高校では元々花が好きで中学時代から習っており、仲が良かった友人から誘われ華道部にも入っていた[17]。高校時代は演劇をしたいという気持ちはなく、ごっこ遊びは完全に終わっており、高校で進路を決めた時には、「私は看護士になってホスピスで働くか、小児科に行きたい」と考えていた[17]。通っていた高校は上に付属の短期大学の保育科があったため、「保育士さんでもいいな」と思った[17]


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