胡錦涛
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四男であり、胡錦濤の祖父の胡炳衡は幼少時から読書を好み、科挙の合格を目指すも挫折を繰り返し、志半ばで死去。胡炳衡には2人の息子がおり、次男の胡増ト(1917年生まれ)が、胡錦濤の父親にあたり、後に「静之」と改名する[3]
来歴
生い立ち

1942年12月21日、江蘇省泰県姜堰で誕生。高祖父の胡允源が商売の為に故郷を離れて江蘇省に移り住んだことから、胡錦濤もこの地に移った[1]。父の胡増トは泰州姜堰高校を卒業後、上海の小学校で教員として働く。同地で江蘇省東台県出身で南通女子師範学校卒業の李文瑞と出会い、1941年に結婚し、翌年の12月に胡錦濤が誕生している。胡錦濤は長男であり、その下に2人の妹(胡錦蓉・胡錦?)がいる。胡錦蓉は江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事(副会長)を務め、胡錦?は泰州にて商業関係の会社に勤務している。

最初、胡錦濤は履歴書に本籍地を「泰州」と書いたが、父親に叱られて以来、「安徽績渓」と書いてきた。[4]

生活苦のため、一家は1948年に上海から泰県に戻る。胡増ト夫妻は地元の小学校で教員をしながら、茶の販売も続けていた。7歳のときに母が死去し、胡錦濤は妹2人とともに泰県の祖母のもとに引き取られた。胡錦濤は物静かな子供で、よく一人で本を読んでいたという。1949年毛沢東による中華人民共和国の建国以降も、父は茶の販売による収入で生活費の不足を補った。経営手腕が乏しかったために店員さえも雇えず、家族はあまり裕福では無かった。胡増トの身分は「小営業主」(農民や労働者よりも身分が低いが、地主や資産家のようなブルジョアよりはずっと高いという)と決定した。この身分が幸いして息子の胡錦濤は大学入学及び中国共産党への入党を認められた[5]

1956年、毛沢東の指導下で中国政府は工業と商業の国有化政策を実施し、各地の私営企業主は個人所有の商店を国や集団へ売却させられた。胡増トの店は泰州市日用雑貨会社に合併され、月給30元の経理係として雇われた。数年後、毛沢東は知識人や幹部に地方の農村部で肉体労働に就くよう呼びかけた。胡錦濤の2人の妹は泰県の農村部に移住し、父の胡増トも泰県の農村部にある日用雑貨会社に転勤した[6]。胡増トは文化大革命で告発され(同時に身分の低い血統であったこともあり)、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた[7]。文化大革命後の1978年、父は泰県の農村にて病没した。当時甘粛省で仕事をしていた息子の胡錦濤は、泰県に戻って父の葬儀を執り行った。遺骨は胡允源と同じく、故郷の績渓県瀛洲鎮龍川に埋葬された。その位牌は、胡氏一族の廟に祀られている[8]
小学校から高校まで

胡錦濤は2人の妹と共に泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った[9]1947年9月にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、1953年6月に10歳6か月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った[10]

1956年9月、泰州第一中学校高等部1年4組に入学する[10]。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという[10]。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という[11]。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている[12]。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、卓球だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。1959年清華大学へ入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時では最も若い新入生であった[12]。高校の数学教員の葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、と助言を与えたという。そこで胡は清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した[12]。ここの卒業生は、ほとんどが地方(または辺境)のダム(水力発電所)に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。
清華大学

1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。胡錦濤は友人に「本当は政治家ではなくエンジニアになりたかった」と語ったことがあるという[13]。胡が清華大学に入学した頃の中国は大躍進政策による農業政策の失敗と自然災害に起因する飢饉に見舞われており、学生の食事は質素なものであった。主食は小麦粉とトウモロコシの蒸しパン各1個ずつ、野菜炒め、白湯一杯であった。当時の清華大学の食堂には椅子がなく、学生たちは立ち食いしていた。胡のような南方出身の学生たちは、子供の頃から米食で育ったため、小麦粉とトウモロコシには慣れていなかった。彼らにとっては白米が一番の贅沢であった[14]

同級生の回想によると、胡は歌とダンスが上手で、キャンパスで注目される存在であったという。入学後まもなく文芸宣伝工作団に入り、部隊隊長に選ばれた[15]

大学在学中、胡は同級生の劉永清と知り合う。理工系の大学である清華大学は女子が少なく、女子学生が少ない水力学部における彼女の存在は、男子学生にとっては憧れの的であった。学生たちの唯一の楽しみとして、週末のダンスパーティーへの参加があり、踊れる者もそうでない者も、土曜日の夜になると学生クラブに集まった。ダンスに秀でていた胡錦濤は常にパーティーの主役であり、女子学生たちからは王子様のように見られていた。胡は女子からの誘いを断らなかったが、視線は目立たないところに静かに座っている劉に注がれていた。いつしか2人は恋人同士となった[16]。学生時代の胡は文学と芸術、とくに映画・芝居・小説を好んだ。彼は図書館から中国やロシアの作家の小説を借りてきて読み耽った。恋人の劉にも小説を勧め、本を貸し借りし、互いに感想を述べあい、小説の話題を仲立ちとしてより親密になっていった[17]
大学卒業後

清華大学在学中の1964年4月、中国共産党に入党した。1965年7月に清華大学水力エンジニア学部を卒業後は、同大学の水力エンジニアリング学部政治指導員として大学に残り、仕事をしながら大学院に進学して研究を続ける[18]。学生時代は学問よりも社会活動に力を注いだために、成績は80余人中20位前後であった。水力学部の教員になるためには大学院を出なければならず、卒業生のなかには大学に残って助手になる者はいなかった。日ごろの政治態度と活動を見込まれた胡は政治指導員として大学に残ったのである。
清華大学における政治闘争

1966年4月23日、清華大学に政治部が発足し、胡錦濤ら新任の政治指導員と、各学部の共産党支部書記600名が加わった。この政治部とは、大学内に設置された中国共産党の下部組織であり、思想教育を担当する[19]。同年6月1日、『人民日報』は「いかなる悪人をも打倒せよ」という社説が掲載された。中央人民ラジオ放送局は夜のニュース番組で、北京大学の壁新聞(大学報)と人民日報の「北京大学の壁新聞を歓迎する」という社説を放送し、「北京大学党委員会が北京市党委員会と協力して北京大学の学生運動を抑圧した」と非難した。この翌日、清華大学に「あなたは誰の指揮に従うか」というビラが貼られ、清華大学の学長・?南翔の、政治問題を回避し、学術研究を重視する姿勢が非難された。その後もキャンパス内に「大学党委員会は黒幕だ」「大学党委員会と翔学長を守ろう」といった内容のビラが入り乱れ、文化大革命において清華大学党委員会は革命的立場なのか、それとも反革命的路線なのかといった議論が沸き起こった。これは清華大学における文化大革命の始まりであった。共産党員にして政治指導員でもある胡は、大学党委員会と学長を支持する立場に立ち、大学を糾弾する教職員・学生と対立し、「保守派」のレッテルを貼られた[20]。水力学部の学生に対して、大学党委員会は、過去において教育や研究を奨励し、大勢の優秀な卒業生を世に送り、国家建設に多大な貢献を果たし、共産党中央の方針を忠実に遂行してきたという説得を試みた[20]6月5日、北京市党委員会の新メンバーが送り込んだ人物が、清華大学党委員会の責任者に対して「今から清華大学の全ての行政権は工作組の指導下に置かれることを通知する。明日、工作組みのメンバーが到着次第、大学党委員会の機能を停止する」と宣告する。6月13日、前項大会が召集され、?南翔は解職処分となり、大学党委員会の権限は工作組に委譲されることが正式に発表された。工作組の清華大学への進駐後、かつての党委員会のメンバーと政治指導員は批判にさらされ、政治指導員と教職員を初めとする共産党員の多くが吊るし上げの対象となり、公衆の面前で引き回された。工作組は文化大革命の指導グループとともに、硬軟両様の手段を用いて各学部の党書記と政治指導員を逐一調査にかけて自己批判させた。胡も批判の対象にされることは免れなかったが、学生や教職員との関係が日ごろから良好であったために引き回しの対象にはならずに済んだ[21]。この政治闘争以後、胡錦濤は自らを深く包み、いかなる政治活動にも関わらない、政治的無関心派となった。政治指導員としての仕事も研究もできなくなった胡錦濤は、大学のキャンパス中に貼られたビラを読んで歩いて対立派の論争を聞いて回る以外にやるべきことがなくなった。

その後清華大学の学生による工作組への非難・毛沢東の圧力による工作組の大学からの引き上げと清華大学付属中学の紅衛兵を支持する書簡により、大学で暴力的な出来事が発生する。


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