大正13年(1924年)、第二次護憲運動に際し、神奈川県第五区[4]から護憲派として出馬したが惜敗(9票差)。同年夏、地元の高知県第二区[5]の補欠選挙に出馬したが落選した。田中義一内閣が成立すると、内閣の嘱託となって官邸を出入りし書記官長の鳩山一郎を補佐した[1]。昭和3年(1928年)2月、初の普通選挙となった第16回衆議院議員選挙に、神奈川県第三区[6]から出馬し初当選。以後、3期連続当選を果した。一貫して立憲政友会に属し、農林審議会議員、米穀統制調査会委員、立憲政友会総務を歴任[1]。
昭和4年(1929年)ベルリンで行われた「第15回万国議院商事会議」に参加。昭和初期の不景気を打開するため、農政会を結成し『農政新報』を発刊して、国民生活の向上の為にはその基盤となる農村、漁村、山村の生活向上が先決であると説いた[7]。
戦後、公職追放となった[8]。追放中の昭和22年(1941年)3月22日逝去。享年72歳[2]。墓は、多磨霊園の第12区1種16側にある。
胎中楠右衛門を描いた小説
『朱鳥』田中貢太郎著、竹村書房、昭和9年(1934年)
補註^ a b c d e f 『胎中楠右衛門氏の片鱗』山本熊太郎著、安久社、昭和17年(1942年)5月25日
^ a b c 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、昭和46年(1971年)
^ a b c d 『 ⇒政党政治家胎中楠右衛門と二つの憲政碑』高橋勝治著、明治聖徳記念学会紀要、平成19年(2007年)
^ 神奈川県第五区は「高座郡、愛甲郡、津久井郡」の範囲。
^ 高知県第二区は「安芸郡、香美郡」の範囲。
^ 神奈川県第三区は「高座郡、愛甲郡、津久井郡」、中郡、足柄上郡、足柄下郡の範囲。
^ 『農政新報』昭和4年(1929年)
^ 公職追放の該当事項は「翼賛体制協議会構成員」。総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、612頁。NDLJP:1276156