「背広」の語源については諸説ある。
1967年刊の日本国語大辞典では、漢字の「背広」は外国語の音を表すための当て字であるという説と、意味に由来する命名とする説があるが、前者の説が有力である[9]、と説明された。幕末から明治初期にかけて「セビロ」というカタカナ表記が見られるようになり、一般には明治20年(1887年)頃から用いられたとされる[9]。
語源については
英国ロンドンの高級紳士服店街「サヴィル・ロウ」(セビルロー)から変化したとする説[10][8][11][12][13]。
市民服を意味する「civil clothes」から変化したとする説[8][11][12]。
市民服を意味する「civil wear」から変化したとする説[14]。
「背部(背の布パーツ)が広い服」の意[8][11][14]。(紳士服の裁断された布パーツ群の中の背中部分の面積の大きさによる呼び分けだ、とする説については下の節で続きを説明。)
『背筋に縫い目がない[15]ところから「背広」と呼ばれた』と主張する説[12]。
「sack coat」の訳語で「ゆったりした上衣」の意。
紳士服に用いられる良質の羊毛・服地を意味する「シェビオット(Cheviot)」から変化したとする説。
『増訂華英通語』に「ベスト(上着)」の意で「背心」、「new waistcoat」として「新背心」など、紳士服の訳語に「背」の字が使用される(ただし、sack coatの訳にはみえない)ことに注目し、中国語に由来するとの説[16][17][18]。
など複数ある。 背広の上着のボタンは、立つときは閉じ、椅子に座るときは開けてもよい[注釈 1](国会審議でも答弁者は答弁に出向く時に前を閉じる)。近年はシングルブレストの場合、ピークドラペルは礼装用でビジネスでは着ない[19]ことが多い。1940年代以前は逆にピークドラペルも日常的に用いられていた。また、ダブルブレストの場合は礼装・普段着を問わずピークドラペルで作られることが一般的である。 上着がシングルブレスト2つボタンの場合は、上のボタンのみを掛け下のボタンを掛けず[注釈 2]、シングルブレスト3つボタンの場合は、真ん中のボタンのみを掛けることが推奨されており[注釈 3]、1番下のボタンは閉めることを前提としていない設計のものが多い。1930年代以前はボタン数によらずすべてのボタンが閉じることが可能なように設計されており[注釈 4]、近年でも同様の仕立てを行うテーラーもある。 シルエットを乱すため、ポケットには物を入れないことが推奨されている(ただし、テーラーによっては実用本位と捉えている場合もある。また、構造上は口に閂止めをほどこし、底を二重縫いにするなど、実用可能な縫製が行われている場合が多い)。 背広のような腰丈のジャケットのヨーロッパでの登場は、1789年フランス革命でのサン・キュロットとされる。それまでの上着は、ジュストコルのように膝丈のいわゆるコートであった。直接的には背広は、19世紀中頃に当時の日常着であったフロックコートを改良したものとされる。膝丈のフロックコートを短く腰丈にしくつろげるようにゆったりとした作りの、ラウンジジャケットやサックコートと呼ばれる上着である。これは自宅の広間などだけでなく、スポーツなどレジャーにも用いられた。また共生地でズボンやベストも作られ、ラウンジスーツ、サックスーツなどと呼ばれる。背広の三つ揃い。1900年撮影の若きフランクリン・ルーズベルト。 19世紀後半になるとアメリカ合衆国ではビジネスにも用いられるようになりヨーロッパにも波及し、20世紀までには世界的に普及した[2][3][5][6]。 20世紀までに、背広の形状はいわば標準化され、それ以降は上着丈や肩幅や形状、ラペル、ズボンの太さや丈、ボタンの数などの変化に流行が見られる。20世紀初頭は肩を強調した形状にゆとりのあるズボン、1910年代は自然な形状の肩、1920年代は裾幅の広いズボン、1930年代は直線的な軍服をモチーフとした肩などである。第2次大戦後はアメリカ合衆国などでチョッキを省略した着こなしが普及する[2]。 現在では式典など簡略化が行われ、それに伴って服装も簡略化され、略礼装、平服、informalと呼ばれる男性であれば背広型のスーツ、特にダークスーツで対応できることが多い[20]。イギリスのエリザベス2世が組閣の任命をする場合、男性首相は背広型スーツでバッキンガム宮殿を訪れる[21]。 日本では1867年の片山淳之介の『西洋衣食住』に、フロックコートが割羽織、背広を丸羽織として記述される。また、1887年の大家松之助の『男女西洋服裁縫独案内』では背広と表記される。背広は明治末から大正初頭にかけて普及していった[2]。 流行に関しては明治当初はフランスの影響が強く、次第にイギリスやアメリカの影響を強く受けるようになった[22]。世界的な流行に倣い、明治当初は4つボタンの着丈の短いもの、明治中期以降は3つボタンの着丈の長いものが流行したが、大正の終わり頃からは日本人と西洋人の体格差を意識するようになり、着丈の短い2つボタンスーツが普及する[23][24][25]など独自の路線を辿った。また、夏季に関しては世界に先駆けてチョッキを省いていることが当時の写真や百貨店のカタログなどからうかがえる[注釈 5]。ただし、裁断や細部の処理などはその後も世界的流行を盛んに取り入れており、襟型およびバストやショルダーの設計などは同時期の欧米の例に違わない[注釈 6]。また、ズボンに関しては大正期以前はウエストが広くとられた、調節を尾錠で行う「窮屈袋」と呼ばれる[26]サスペンダーを用いて固定を行うものが一般的であったが、この頃から現在の様子に近いベルト固定式のものとなる[注釈 7]。大正時代ごろの背広の一例。生地を裏返して仕立て直しており、左右が逆になっている。生地が高価だった当時はこうした処理がよく行われた。昭和10年ごろの背広の一例。当時は設計上二つともボタンを留めることが可能であった。腕付けやポケットの位置が現代と大きく異なる。昭和初期ごろのズボン。同時期の海外では履き口のフチにベルトループの据えられた腹で履くタイプのものが多いのに対して、日本では現在一般的なズボンの履き位置に近い腰骨のあたりにベルトループが据えられたものが多い。 第二次世界大戦が始まると、日本では1942年2月1日から衣類の配給制(点数切符制)が導入され、背広を自由に購入することができなくなった。都市部の住民の例では1人年間100点が与えられ、点数化された衣料品を購入できる仕組みとされたが、背広は一式31点と比較的高い点数が設定されており[27]、金があったとしても贅沢品であるとして購入が憚られる状況となった。 戦後の昭和20年代にはアメリカの影響を強く受け、肩幅や胸回りの大きな、着丈の長いものが流行した[28]。昭和30年代には再び落ち着いた型となり、急速にナローラペルが広まった。この頃世界的には3つボタンが流行したが、日本では2つボタンが相変わらず愛用されていた。昭和40年代?昭和50年代ごろには転じてワイドラペルとなり、ブレストとウエストの強弱の激しいものとなる。また、この時期以前の裁断は前身頃と後身頃のみから成るものが一般的であったが、この頃から海外同様に脇ダーツの延長線上に腰ポケットを貫通する形でサイバラ(脇下部分)を独立させるものが普及し始める[注釈 8]。
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