第二次世界大戦が始まると、日本では1942年2月1日から衣類の配給制(点数切符制)が導入され、背広を自由に購入することができなくなった。都市部の住民の例では1人年間100点が与えられ、点数化された衣料品を購入できる仕組みとされたが、背広は一式31点と比較的高い点数が設定されており[27]、金があったとしても贅沢品であるとして購入が憚られる状況となった。
戦後の昭和20年代にはアメリカの影響を強く受け、肩幅や胸回りの大きな、着丈の長いものが流行した[28]。昭和30年代には再び落ち着いた型となり、急速にナローラペルが広まった。この頃世界的には3つボタンが流行したが、日本では2つボタンが相変わらず愛用されていた。昭和40年代?昭和50年代ごろには転じてワイドラペルとなり、ブレストとウエストの強弱の激しいものとなる。また、この時期以前の裁断は前身頃と後身頃のみから成るものが一般的であったが、この頃から海外同様に脇ダーツの延長線上に腰ポケットを貫通する形でサイバラ(脇下部分)を独立させるものが普及し始める[注釈 8]。(なお、前項で言及した「達磨」で用いられたサイバラは腰ポケットを貫通しない背中寄りにとられたものであり、この時期から普及したサイバラとは設計が異なる。)昭和60年代ごろから平成初期にかけては肩幅を強調し腰の絞りを抑えた着丈の長い型が流行し、ダブルの型も広く着用された[注釈 9]。その後は3つボタンの流行などもありつつ漸次タイトなスタイルとなり、平成末期以降は着丈の短い、全体が身体に密着した型に落ち着く。襟型としては幅の狭いものが一般的となり、ゴージラインは平成年間を通じて上昇傾向にある。 背広は、ポストモダンが提唱される現代からすれば、過去のモダニズムに基づき、かつ生き続けている。新古典主義による自然そのものの人体をなぞるようにフィットした形状、体を束縛せず動きに追随する合理性、レースやフリルなどの表面上の装飾を廃して毛織物そのものの重厚さとパターンや仕立ての妙を重視すること、抑制された色調と形状の制限によるダンディズムやジェントルマンの表現、首筋を締めた薄い色調のシャツと濃い色調の上着の開いた胸元のくつろぎ感のバランス、鮮やかな色彩を添えかつ男性器を暗示するネクタイ、などである。 モダニズムに代表される西洋の価値観が世界的に広まり、今日各国の首脳が集まる国際会議などでは、背広を着た人が大多数を占め、伝統的な民族衣装などを着る人は少ない[29][30]。 世界的に普及することで、地域独特の文化をも生み出してもいる。一つは長くフランスやベルギーなどの植民地となりまた戦争を経験している、コンゴ民主共和国やコンゴ共和国などにおけるサプールと呼ばれる人たちである。多くは豊かではない労働者で日常は作業着などで仕事をしているが、水道が普及していない環境でも体や服の清潔を保ち、収入の多くを高価な背広に費やし、ハレの日などには濃い肌や髪や瞳の色と互いに引き立て合う鮮やかな色調の着こなしで現れ、平和と自由を尊重して人生を楽しみ、尊敬される人たちである[31][30]。 日本では明治維新に伴って背広を含む洋服を取り入れたが、冠婚葬祭などにおける礼装や、仕事や外交における半ば制服として、ファッションではなくマナーに留まっていて、これは現在も続いているとする評もある。冠婚葬祭でのブラックスーツや就職活動でのリクルートスーツ、会社員や公務員では暗い色の背広に白いシャツと地味なネクタイ、暴力団などの反社会的勢力ではけばけばしい派手な背広とシャツとネクタイの組合せなど、ステレオタイプな画一的な服装をしていて、背広を含めた服装に社会の規律を意味する度合いが、日本では非常に高いとされる。環境省など行政が提案しているクール・ビズでは、具体的に服装規定を設けて、背広の上着を着ないいわゆる「ノージャケット」について「可だが徹底されていない」などの表現にみられるように、ルール化されている。また「体形に合ったスーツ選びを。色はダークな紺か黒が無難。」や「スーツに合わせる定番アイテムのルール」のように規則として表現している書籍もある[30][32][33][34][35]。 男性の略礼装には昼夜を問わず背広型のスーツが用いられる。特に改まった場ではダークスーツがふさわしいとされる。ダークスーツは暗く濃い灰色か紺色の無地やそれに準じる生地を用いた背広型のスーツである。着こなしはシャツやネクタイに決まりがないが、白色のシャツに結婚式などでは華やかな色や銀色のネクタイ、葬儀などでは地味な色のネクタイを用いるのが奨められている。黒色の背広型スーツ(ブラックスーツ)を用いるのは日本独特の風習であり、ブラックスーツはダークスーツに該当しない[5][6][20][36]。 もともと注文服として生まれた自宅でくつろぐための背広は、既製服化され「吊るしの背広」として普及することにより略礼装にも用いられる服に昇格する。背広の世界的普及は、欧米の科学技術や経済や文化の優越感や、帝国主義によるグローバリゼーションによるもので、中国における人民服や、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラが着たろうけつ染めのシャツ、あるいは糸車を廻すマハトマ・ガンディーの着るインドの木綿の肩掛けや腰布など、一様ではなく社会的にも複雑な問題をはらんでいる。また、かつて若者の反抗のシンボルとされたジーンズとTシャツに背広をあわせるような着こなしもある。このように受容あるいは拒否された背広は、ポストモダンが提唱される現代では「退屈な代物」などと評される一方で、今後もしばらく生き延びるとされている[29][30]。 日本で売られている背広は1万円以下のものから数十万円のものまで価格幅が広い。 男性用背広服の販路別売れ筋価格帯[37]商品ライン販路価格(円) 日本では、家計消費状況調査の品目として背広も調査されている。2017年での背広の平均は53500円であった[38]。 家計消費状況調査年報 2017年 背広[38]年間収入(万円)平均(百円)
文化と社会
販売価格
プレステージ直営店144636
ベター百貨店96281
モデレートセレクトショップ64188
ポピュラー総合スーパー42792
バジェットホームセンター28670
-20083
200-300181
300-400295
400-500296
500-600683
600-700779
700-800942
800-9001178
900-10001117
1000-12501667
1250-15001895
1500-20002377
2000-6224
参考資料
辻元よしふみ、辻元玲子 『スーツ=軍服!?―スーツ・ファッションはミリタリー・ファッションの末裔だった!!』 彩流社、2008年3月。ISBN 978-4-7791-1305-5。