胆振線
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京極以南は、鉄道敷設法別表第131号に規定する予定線膽(胆)振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈至ル鐵道」に沿い、京極線の延長の形で胆振鉄道(いぶりてつどう)が建設し、1928年(昭和3年)に喜茂別(初代)まで開業した[2]

1940年(昭和15年)には、胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう)によって伊達紋別 - 徳瞬瞥(とくしゅんべつ=後の新大滝)間が開業[2]、翌年には胆振鉄道を合併[2]、そして西喜茂別(後の喜茂別(2代))まで延伸され、伊達紋別 - 京極間が全通した[2]

1944年(昭和19年)には、胆振縦貫鉄道が戦時買収され、京極線と合わせて胆振線となっている[2]。戦時買収前日の6月30日の夜、昭和新山が噴火を開始。沿線一帯が激しい隆起に見舞われたが、戦時鉄鉱石輸送という路線の使命上、列車の運行を休止させることもできず、各地から保線区員を集めて迂回鉄路を引き直し続けた。結局、昭和新山の噴火が終息を迎える頃には、元々の鉄路があった場所は山の中腹に位置するほど地形は変化したが、列車の運行を休止することはなかった[4]

枝線となった京極 - 脇方間については、鉱山の閉山により輸送量が減少し、赤字83線には含まれなかったものの、その取組みの中で1970年(昭和45年)に廃止された。残った伊達紋別 - 倶知安間についても、1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると、有珠山噴火による運休があった1977(昭和52)年度を含む1979(昭和54)年度までの3か年の輸送密度をもとに、第2次特定地方交通線に指定された。

そして、1986年(昭和61年)10月31日の旅客営業を以って全線廃止となり、道南バスバス路線に転換された。

改正鉄道敷設法には、京極から留寿都を経て壮瞥に至る鉄道(別表第132号)も規定されていたが、こちらは全くの未着手に終わった。この区間には、 国鉄バス伊達線)が京極駅 - 豊浦駅間に運行されていたが廃止されている。
倶知安 - 脇方間(京極線)

脇方の倶知安鉱山は1916年(大正5年)に三井鉱山の所有となり、さらに1918年(大正7年)4月に三井が出資する室蘭の北海道製鐵(旧・輪西製鐵所、現・日本製鉄室蘭製鉄所)へ譲渡、同年11月1日に開山した。当時推定鉱量1,000万tと言われた同鉱山への国家的な期待は大きく、当線が建設される主要動機となった[5]

1919年(大正8年)11月15日 倶知安 - 京極間 (13.4 km) を京極軽便線として新規開業[2][6]。六郷駅・寒別駅・京極駅を新設[1]

1920年(大正9年)7月15日 京極 - 脇方間 (7.5 km) を日本製鋼所が敷設し、全線を鉄道院に寄付して開業[7][8]。脇方駅を新設[1]

1922年(大正11年)9月2日 京極線と改称[2][9]

京極 - 喜茂別間(胆振鉄道)

1928年(昭和3年)10月21日 胆振鉄道が京極 - 喜茂別間 (11.0 km) を開業[2][10]。川上温泉停留場・留産駅・喜茂別駅(初代)を新設[1]

1931年(昭和6年)6月25日 東倶知安停留場を新設[1]

伊達紋別 - 西喜茂別間(胆振縦貫鉄道)

1940年(昭和15年)12月15日 胆振縦貫鉄道が伊達紋別 - 徳瞬瞥間 (35.0 km) を開業[2][11]。上長流停留場・壮瞥駅・久保内駅・蟠渓駅・優園停留場・優徳駅・徳舜瞥駅を新設[1]

1941年(昭和16年)

9月27日 胆振縦貫鉄道が胆振鉄道を合併[2]。東倶知安停留場を東京極駅に改称[1]

10月12日 徳瞬瞥 - 西喜茂別間 (24.2 km) を延伸し[12]、全線開業[2]。西喜茂別 - 喜茂別間 (0.7 km) の旅客営業を廃止[2]。尾路遠停留場・御園駅・北鈴川駅・西喜茂別駅を新設[1]。喜茂別を一般駅から貨物駅に変更[1]


1943年(昭和18年)12月頃から、昭和新山の火山活動により壮瞥村(当時)の地盤が隆起を始め、上長流 - 壮瞥間でたびたび線路が崩壊。保線と新線建設が火山活動の終了まで繰り返される[13]

胆振縦貫鉄道買収後

1944年(昭和19年)7月1日 胆振縦貫鉄道の伊達紋別 - 京極間、西喜茂別 - 喜茂別間を買収・国有化し、これに京極線を編入して胆振線(伊達紋別 - 倶知安間・京極 - 脇方間)とする[2][14]。西喜茂別 - 喜茂別間 (0.7 km) を廃止し、喜茂別駅(旧西喜茂別駅)構内に併合[2]。優園駅を北湯沢駅に、川上温泉駅を南京極駅に、西喜茂別駅を喜茂別駅(2代)に改称[1]。東京極駅を廃止[1]。尾路遠を駅から仮乗降場に改める[1]

1952年(昭和27年)11月15日 徳舜瞥駅を新大滝駅に改称[1]

1959年(昭和34年)10月1日 上長流を上長和駅に改称[1]

1960年(昭和35年)10月1日 北岡駅・参郷駅を新設[1]

1962年(昭和37年)12月17日 東京極駅を新設[1]

1970年(昭和45年)11月1日 京極 - 脇方間 (7.5km) を廃止[2]。これに伴い、脇方駅を廃止[1]

1977年(昭和52年)

8月7日 有珠山の噴火により伊達紋別 - 新大滝間の運転を見合わせ[15]

8月15日 久保内 - 新大滝間の運転が再開[15]

9月4日 伊達紋別 - 久保内間で1日1往復(5日から2往復、13日から3往復)運転開始[15]

9月30日 完全復旧[15]


1984年(昭和59年)6月22日 第2次特定地方交通線として廃止承認[16]


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