非常事態を告げる機関車の汽笛を聞いた地元住民や真幸、吉松の警防団が第二山ノ神トンネルに向かったが、トンネル内は排煙で黒くなった遺体やその破片、生存者のうめき声が響く惨状だった。この事故で、49名[注釈 3]が死亡した[1]。 故郷を目前に命を絶たれた復員兵の霊のために、事故の翌年から地元住民による慰霊祭が毎年8月22日に行われている。第二山ノ神トンネルの真幸側出口には、十七回忌に当たる1961年(昭和36年)8月22日に慰霊碑が建立された[1]。 2019年現在、同区間を走る観光列車「いさぶろう・しんぺい」の車内では、現場付近の案内放送でこの事故についての説明が行われている。 作家の鶴ケ野勉
影響
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 重連ではなく、編成の最後尾に補機を連結していた。
^ 不足する客車の「代用」として、無蓋貨車を連結していた。
^ 53名、または56名との説もある。
出典^ a b c d e f g h i j 大谷節夫「エピソード明治・大正・昭和 14-復員軍人の殉難」 倉地英夫・大谷節夫『九州の蒸気機関車』ぱぴるす文庫05 葦書房 1978年 P.78-80
関連項目
鉄道事故
近鉄奈良線列車暴走追突事故
北陸トンネル列車火災事故
外部リンク
肥薩線100年の旅?全線開通100周年? - 鹿児島県 - ウェイバックマシン(2010年9月24日アーカイブ分)