肥前
[Wikipedia|▼Menu]
明治3年(1870年)9月 - 旗本領の残部(松浦氏領)が長崎県の管轄となる。

明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が佐賀県蓮池県小城県唐津県平戸県福江県鹿島県大村県島原県および厳原県の飛地となる。

11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・小城郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡西松浦郡域)が伊万里県、彼杵郡・高来郡および松浦郡の残部(後の北松浦郡南松浦郡域)が長崎県の管轄となる。


明治5年5月29日1872年7月4日) - 伊万里県の管轄区域が佐賀県(第2次)の管轄となる。

明治9年(1876年

4月18日 - 第2次府県統合により、佐賀県の管轄区域が三潴県の管轄となる。

5月24日 - 杵島郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡・西松浦郡域)が長崎県の管轄となる。

6月21日 - 藤津郡が長崎県の管轄となる。

8月21日 - 全域が長崎県の管轄となる。


明治16年(1883年5月9日 - 藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・小城郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡・西松浦郡域)が佐賀県(第3次)の管轄となる。

国内の施設
国府

国府は、『色葉字類抄』によると、佐嘉郡にあり現在の佐賀県佐賀市大和町惣座(久池井)にあった。大化の改新によって国府が置かれるようになり、肥前国の国府は大和町久池井に置かれた。行政・防衛の中心地として重要な地点を占めた。国府の長である国司の中には、遣唐使中有名人の一人である吉備真備や、大江山の酒天童子退治で「平安時代の快男子」とうたわれた源頼光もこの地に住んでいた。

8世紀前半に造営され、そのまま移転せずに規模を変化させているが、10世紀に入ると急速に縮小していく。1975年昭和50年)から1984年昭和59年)までの発掘で政庁などの遺跡が発見された。1989年、国の史跡に肥前国庁跡が指定された。

内陸にある国府に通じる国府津(外港)が、現在の佐賀市諸富町大津にあったと推定される。現在、惣座の国庁跡は嘉瀬川沿い、大津は筑後川沿いにあって直接通じていないが、古代は嘉瀬川(『肥前国風土記』等記載の佐嘉川に比定)の流路が異なり両地点が舟運で結ばれていた可能性がある[2]

易林本の『節用集』では、「小城郡に府」と記載がある。なお、昭和10年頃の地図などによると、かつては現在の大和町の一部(都府楼、惣座、尼寺辺りまで)も小城郡としていたという記録もある。[3]
国分寺・国分尼寺
肥前国分寺跡
佐賀県佐賀市大和町大字久池井。
神社
延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている(「肥前国の式内社一覧」参照)。大社1社は名神大社である。

松浦郡 田嶋坐神社 (現 田島神社、佐賀県唐津市呼子町加部島) - 名神大社。

松浦郡 志志伎神社長崎県平戸市野子古町)

基肄郡 荒穂神社 (佐賀県三養基郡基山町大字宮浦)

佐嘉郡 與止日女神社 (佐賀県佐賀市大和町大字川上)

総社一宮


総社 所在不明

一宮

與止日女神社 - 国衙と結びついていた。

千栗八幡宮 - 宇佐神宮を背景とした。

最も社格が高いのは田島坐神社であるが、一宮にはなっていない。一宮は中世以降、上記の2社が一宮を主張し並立した。二宮以下は不詳であるが、天山社・天山神社が三宮とされることがある。
安国寺利生塔

安国寺 - 佐賀県
神埼市神埼町朝日。

利生塔 - 東妙寺(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)内に設置。

地域

※ 矢印→の右側は近代(1896年明治29年))以降の郡名及び市名。

基肄郡(きい)→三根郡、養父郡と合わさり、佐賀県三養基郡

姫社郷

山田郷

基肄郷

川上郷

長谷郷


養父郡(やふ)→三根郡、基肄郡と合わさり、佐賀県三養基郡へ・郡から除外された市部は鳥栖市

狭山郷

屋田郷

養父郷

鳥栖郷


三根郡(みね)→養父郡、基肄郡と合わさり、佐賀県三養基郡へ


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef