聚楽第
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「聚楽」という名の由来については、『聚楽行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。またフロイスの『日本史』には「彼(秀吉)はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とある。これら以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、秀吉の造語と考えられている。
現況『聚楽第址』の石碑 1992年(平成4年)に聚楽第本丸東堀の跡から大量の金箔瓦が出土した。この石碑はその東堀跡に建てられている

上述のように、聚楽第は徹底的に破却されたので、明確な遺構は残っていない。

現在 『聚楽第址』の石碑が 中立売通大宮西北角(聚楽第本丸東堀跡【写真:右】)と中立売通裏門南西角(聚楽第本丸西堀跡)の2箇所に建てられている。

1992年(平成4年)、西陣公共職業安定所(ハローワーク西陣・大宮通中立売下ル)の建て替え工事の際に、本丸東堀跡が検出され、金箔瓦約600点が出土した。本丸側から投棄されたように層状に堆積していたため、本丸の建物に葺かれていた瓦と考えられる。2002年(平成14年)国の重要文化財に指定された。

1997年(平成9年)には、一条通松屋町西入ル北側のマンション建築工事の際に、東西に延びる底石列が二列検出された。この石列は京都図屏風などから北之丸北堀南側の石垣のものと考えられる[12]

2012年(平成24年)には、京都府警西陣待機宿舎(智恵光通上長者町下ル東側)の建て替え工事の際に、本丸南堀北側の石垣の基部(東西間の約32メートル)が検出された。

聚楽第の破却に際し、建物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承があるが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は大徳寺の唐門だけである[13]

また「梅雨の井」(松屋町通下長者町上ル東入ル)は聚楽第の遺構であると伝承されてきたが、近年の研究ではこの地点は東堀の中に当たるので、遺構ではない可能性が指摘されている。

また松林寺(智恵光院通出水下ル)付近一帯は周辺より3mほど低くなっており、古くから聚楽第の堀跡とされてきた。1997年に試掘調査[14]が行われ、報告者は外堀の一部としている[15]。一方で、桃山期から江戸初期にかけての文献史料・絵画等に、聚楽第に外堀のあったことが見えないところから、江戸時代以降、壁土として盛んに利用された「聚楽土」の採掘跡の可能性を指摘する声もある[16]。1997年の試掘調査でも深さ3mほどで地山に当たっており現況からは深さ3間・幅20間あったという聚楽第の堀を想定することは難しい。また、平成27年(2015年)の京都大学防災研究所らによる「表面波探査」では、堀は確認できなかった[17]。京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には加藤清正寄贈と伝えられている庭石が残る。

江戸時代の間は「聚楽村」と呼ばれる農村であったが、近代以降に市街地化された。町名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院(旧みだい)町」「東堀町」など、当時の名残が色濃く残っている。「黒門通」は聚楽第の東門(「くろがねの門」)にちなむとされ、また「藤五郎町」「如水町」「小寺町」「浮田町」「中村町」「飛弾殿町」「福島町」「中書町」「直家(旧なおゑ)町」など秀吉麾下の武将の名を冠した町名も多く残る。

廃却後、聚楽第縁辺にあった聚楽町に住んでいた住民は町ごと伏見城下に移転させられ、現在も京都市伏見区には聚楽町の地名が残っている。同区内にはこのほか聚楽第ゆかりの「(東・西)朱雀町」「(上・下)神泉苑町」の地名も残る。
資料
文献



『聚楽行幸記』 -
大村由己筆。『天正記』全6編の1つ(『群書類従』所収)。1588年(天正16年)成立。同年4月14日-18日の後陽成天皇行幸をその直後に記したもの[18]



日本史』 - ルイス・フロイス著 - 聚楽第についての記述がある。

『輝元公上洛日記』- 天正16年に毛利輝元が大坂城や聚楽第を訪れた際の記録。

『兼見卿記』- 吉田神社の神官 吉田兼見の日記。

言経卿記』- 当時の中流公家 山科言経(やましな ときつね)の日記。

絵画

聚楽第を描いた絵画は以下のものが確認されている[19]

「聚楽第図屏風」 六曲一隻 桃山時代 三井記念美術館所蔵。聚楽第を描いたものとしては最も古いと考えられている。

「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵

「御所参内・聚楽第行幸図屏風」 六曲一双 桃山時代 個人蔵(上越市立歴史博物館寄託)[20]


「 ⇒洛中洛外図屏風」 六曲一双 江戸時代前期 尼崎市教育委員会所蔵[21]

聚楽第行幸図屏風」 二曲一双 寛永初期 堺市博物館所蔵

「洛中洛外図」南蛮文化館蔵。 廃城後の聚楽の姿を描く[22]

『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 東京藝術大学資料館所蔵[23]

豊公築所聚楽城之図」 名倉希言筆 豊國神社所蔵[24]

図面資料

以下の1?6はいずれも同じ原図によるものと考えられ、国立国会図書館蔵のものが一番オリジナルに近いと考えられる。堀、門、天守、櫓などの位置及び大名屋敷の位置と街路が書きこまれ、築垣と思われる太線も記入されている。

『京都図屏風』は一名『地図屏風』とも呼ばれ、寛永2年(二条城拡張工事)から4年(後水尾院御所着工)ごろまでに描かれたと考えられ、ほぼ6500分の1の正確な京都の地図で、聚楽第の堀の形状と位置を記す唯一の資料である。

この他、表千家には聚楽第内にあった利休屋敷の部分的な平面図が遺されている。

1.『日本古城絵図』「聚楽古城之図」国立国会図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)

2.『諸国古城之図』(浅野文庫本)「山城 聚楽」広島市立中央図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)

3.『太閤御縄張聚楽城之図』個人蔵 安土城考古博物館寄託

4.『聚楽古城之図』臼杵市教育委員会所蔵

5.『聚楽城古図』尊経閣文庫 前田育徳会所蔵


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