聖霊派
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初代教会においては、異言、預言、病のいやし、死人が生き返ること、悪霊追い出しがあった[1]

アウグスティヌスは、使徒時代の終焉と聖書正典の完結により、これら聖霊の賜物が無くなったと教え、ヨハネス・クリュソストモスもこれに同意した。宗教改革者のルタージャン・カルヴァンもこの「カリスマタ中止理論」「終焉説」を受け入れた[2]。宗教改革者らが終焉説を受け入れた大きな二つの理由に、宗教改革者が誤りと考えたカトリック教理を承認させるため、ローマ・カトリック教会がその証拠としてローマ・カトリックで起こったとされる奇跡を持ち出したことと、宗教改革者らに実際に奇跡の経験がなかったことがあると考えられている[3]
初期の聖霊派詳細は「聖霊運動」を参照

テルトゥリアヌスも参加したことで知られるモンタノス派は異言を話したとも言われる。1830年代の、エドワード・アービングや、メアリー・キャンベルは異言を語り、いやしをした。これがペンテコステ派につながったとされている。

19世紀後半のアメリカで、聖霊の降臨による癒しと三度の浸礼による洗礼、キリストの再来が近いことなどを説き多くの信者の支持を得たジョン・アレクサンダー・ドウィ(英語版)は、1896年にシカゴでキリスト教カトリック使徒教会(英語版)を設立した[4]1900年にはイリノイ州シオンに拠点を構え、シオンのキリスト教カトリック使徒教会(CCACZ)として聖霊による治療儀礼を行い、禁欲的な集団生活を実践した。CCACZはペンテコステ運動と同調して1904年南アフリカで伝道活動を行った。1908年にヨハネスブルグでオランダ人牧師ピーター・ロルフが受けたペンテコステを契機として、聖霊の憑依を受けたと告白するアフリカ人の信者が続出し、伝道は拡大した[4]。1910年代から1920年代にかけてアフリカ人の手によって幾つものシオニスト系独立教会が組織され、今日でも南アフリカ、ジンバブエを中心に南部アフリカの一大宗教勢力となっている[4]
ペンテコステ派詳細は「ペンテコステ派」を参照

1901年1月1日、ホーリネス派のチャールズ・パーハム(1873-1929)が女学生に按手をし、その場にいた者が異言を語りだした時から、始まるとされる。パーハムは「聖霊のバプテスマを受けることが大患難時代を逃れる唯一の方法であり、異言がその唯一の保証である」とした[5]ウィリアム・ジョセフ・シーモアを指導者とする1906年 - 1909年のアズサ・ストリート・リバイバルにより拡大した[6]
教理

伝統的にペンテコステ派は、異言を聖霊のバプテスマを受けた証拠とし、異言を、聖霊を受けることと同一視してきた。ウェスレアン神学、ホーリネス神学に多くを負っている。
教会、団体

1914年設立のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドが代表的。日本ではおもに生ける水の川がこの派の書籍を発行している。
カリスマ派詳細は「カリスマ運動」を参照

1960年4月3日、米国聖公会司祭デニス・ベネットは、主日の礼拝説教で、異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたと語り、カリフォルニア州の大教会を追い出され、シアトルの教会に移った。そこは東部最大の教会となり、カリスマ派の拠点となった。カリスマ運動は、アメリカ聖公会から、エキュメニカル派のプロテスタントやローマ・カトリック(カトリック・カリスマ刷新)に広がった。
教理

カリスマ派は、異言を、一つの賜物としてとらえてきた。
教会、団体

日本では1970年代にカトリック初台教会でカリスマ運動の集会が行われ、1998年平成10年)2月、日本基督教団カリスマ派の神学者手束正昭らが聖霊刷新協議会を発足させた。
聖霊の第三の波詳細は「聖霊の第三の波」を参照

1980年代福音派ピーター・ワーグナーチャールズ・クラフトジョン・ウィンバー、ジョン・ホワイトらを指導者とし、フラー神学校世界宣教学部の「しるしと不思議と教会成長」と題する講座「MC510」により広まった。彼らは自らの宣教師としての経験も踏まえて、宣教論を発展させ、力の伝道、力のいやし、力の対決、霊の戦いを強調した[7][8][9]
教理

福音派がペンテコステ派、カリスマ派の働きを拒否してきた大きな理由は、聖霊のバプテスマと異言についての理解と、直接啓示の問題であった[10]。ほとんどの福音派が聖霊のバプテスマと新生を同一視してきたからである[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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