聖職者民事基本法
[Wikipedia|▼Menu]
彼は特使を通じてルイ16世にアヴィニョン領民の武力鎮圧を依頼したが、議会が断ったので、民事基本法を非難する決心を固めた。ただそれはすぐには明らかにされずに、長々と無為に交渉だけが続けられた。[14]

1790年4月22日ニームでは3千人の選挙人が『カトリック宣言』を発して、国王に権力を戻しカトリックを国教化するように要求し、これをパンフレットにして全国に送付する事件が起きた[15]。このカトリック勢力は志願兵を募り、白色帽章を付けて「国民打倒」を叫び、6月13日からの3日間、プロテスタントと武力衝突を起こした。これは300名の死傷者を出して敗れ、南フランスでの最初の反革命は失敗した。近隣のアヴィニョンは6月21日にフランスに併合された。

6月末には法案の主要部分はほぼ完成した。聖職問題委員会を主導したジャンセニストのアルマン=ガストン・カミュ (Armand-Gaston Camus) [注釈 10]によって、国民の議会は宗教を改革する権限を持つと定義され、制定される民事基本法で市民社会の秩序を教会組織にも適用することとなった。また同時に1516年フランソワ1世と教皇レオ10世によって締結されていたコンコルダートの内容は破棄された[注釈 11]1790年7月12日、連盟祭の2日前に同法は可決され、14日の第一回連盟祭ではタレーラン司教が200名[16]の三色旗をまとった司祭達を率いて宣誓の儀式を執り行った。
内容

聖職者民事基本法は4編からなる法律で、第1編は聖職者の職務を、第2編ではその任用を、第3編では報酬を、第4編では居住を、それぞれ定めていた。特色は、聖職者に生活の保障を与える一方で、憲法を維持すること等の宣誓を義務づけ、王権やローマ教会の影響を排除して、任用は教会法ではなく選挙制で一般信徒の意志を反映しようとした点であった。要点は以下。1790年作の聖職者民事基本法の記念皿。「私は憲法を力の限り守ります」の文言と司祭が誓う絵が描かれている(カルナヴァレ博物館収蔵品)

区画の刷新:83という新しい行政区分に合わせて、1つの県に1つの司教区とし、従来133[17][注釈 12]あった司教区は83に改組された。また司教区のなかった司教座は廃止された。人口6,000人未満の市町村は単一の教区にまとめられ、人口6,000人以上の都市は小教区に分割が許可された。(第1編第1条, 第16条)

すべての聖職禄(受禄職)や特別職の廃止:司教座聖堂参事会員や大修道院、礼拝堂付司祭などあらゆる聖職禄や特別職は以後廃止された。これにより複雑であった教会内の地位は単純化、別の言い方をすれば平等化された。(第1編第20条)

選挙制:司教および司祭の任用は選挙によって行われることになった。司教に選ばれるには少なくとも15年間その司教区で聖職者として、すなわち主任司祭、臨時主任司祭、助任司祭、助祭長、神学校の司祭長として、勤務実績が必要。(第2編第1条, 第7条)

外部の権威・権力の否定:フランスの教会および教区市民は、いかなる理由であれ、国外の権力によって任命された司教や大司教の権威を認めてはならない。また新司教は教皇に対して堅信礼を求めてはならない。(第1編第4条、第5条、第2編第19条)

宣誓義務:叙任式の際には、市町村の管理職公務員、人民及び聖職者の面前で、国民、法律及び国王に忠実であること並びに国民議会により制定され国王の受容した憲法を全力で維持することを宣誓する義務を負った。(第2編第21条)

聖職者の公務員化:宗教の代理人は国家によって扶養されるものとされた。司教や司祭には俸給が支給された。司教は従来よりも安い12,000?15,000リーブルと抑える一方で、司祭は1,200リーブル、助任司祭は700リーブルとそれぞれ倍増された。[注釈 13](第3編)

居住地の指定:司教と司祭は持ち場を離れることができない。理由がある場合でも地区当局の同意が必要。(第4編3条)

影響
国王と教皇

ルイ16世は、厳しい反教権主義的な内容を含むこの法律に非常に戸惑いを覚えていた。それは全く彼の意志に反するものだったからだ。教皇が革命に反対の意見を持っていることはすでに周知の事実であったが、フランスと歴代教皇とのこれまでの歴史から考えて、ボワジュランは教皇は最終的には和解の意志があると信じていた。またすでに教会財産は国有化されていたため、生活の糧を失った聖職者の生活保障が必要であり、この法律はどうしても成立させなければならなかった。それで彼はシセ大司教と2人でそれぞれ国王に署名を薦め、既成事実を積み重ねることで、彼らは教皇が聖会を指示して民事基本法を認めることを期待した。

様々な思惑から方々で説得を受けたルイ16世は、不承不承、裁可を受け入れるわけだが、彼はすでに後にヴァレンヌ事件となるパリ逃亡計画を秘密裏に進めていて、半ば強要されたという事実が、これを決意する上での動機の一つとなったと考えられている[19]

実施面での問題と教会と交渉に費やしたために公布まで時間がかかった。この間に国王は諸外国に軍事支援を依頼して交渉していたが、上手くいかなかった。手詰まり感のなかで、宗教的感情は逆に反革命に利用できると考えた王党派や、王制護持に有利に働くと主張した立憲派のミラボーは、異なる思惑で、国王にこの法律を押し進めるように盛んに後押しした。一方では、10月30日、議員になっている司教たちは『聖職者基本法の諸原則に関する解説』と題するパンフレットを発行した。彼らは民事基本法を直接は非難しなかったが、唯一譲れない線として同法が宗教権力たる教皇によって承認されることを主張した。

他方、一般の聖職者と信徒の間では不安が広がっていた。モントーバンなど南部で、プロテスタントとカトリックとの間に流血沙汰の争いが続いていたことも、彼らの態度を硬化させた。西部と南部では激しい宗教対立の歴史があり、遺恨はまだ人々の記憶に新しかった。民事基本法のもとで、憲法の絶対的支配の下に教会が置かれるが、他で平等の名の下にプロテスタント教徒[注釈 14]やユダヤ人が権利を獲得するのを見るにつれ、革命がカトリックを弾圧しようとしているのではないかと疑いだしたのは、自然な流れだったろう。この疑念は教皇ピウス6世の態度によってさらに助長されることになり、次第に敵意へと変わっていった。
宣誓拒否聖職者問題1791年の宣誓拒否聖職者の分布
      35.00 - 51.24%       51.25 - 67.49%
      67.50 - 83.74%       83.75 - 100%

1790年11月26日、議会は全国の聖職者は2ヶ月以内に宣誓を行うものと決め、翌日に全国に通達を発して、これが強制であり拒めないものであることを示した[20][21]。ところが、宣誓を拒否した聖職者は、洗礼授与、結婚、埋葬、聖体授与、告白、説教など、あらゆる公共の儀式が禁止されると警告していたにもかかわらず、12月26日に正式に公布されると、聖職者の議員の約3分の1だけが宣誓を受け入れ、過半数は拒否した。全国でも抵抗は広がり、司教は7名だけは宣誓に応じたが、残り全員が宣誓を拒否し、司祭の約半数も宣誓を拒否した。

このような情勢でも聖職者たちは和解の道を模索していた。しかし1791年3月10日4月11日の親書で、教皇ピウス6世が明確に民事基本法と人権宣言の精神を否認して反革命の立場を鮮明にしたことで、対立は決定的となり、努力は水を差されることになった。欺かれたボワジュランらは茫然自失となったが、この親書は一般への公開をためらうような棘のある内容であったので、1ヶ月以上も秘密にされ、何とか修復を謀ろうとフランスの司教は総辞職を申し出て、却下された。国家と教会の分裂は避けられない情勢となり、5月には、フランスは駐ローマ大使を引き上げさせ、ローマも教皇使節をパリから引き上げさせて、公に断交状態となった。

左図のように、数県ではほとんどすべての聖職者が宣誓を拒否したので、それらの地域では儀式を中止せざるをえなくなった。議会は、これらを宣誓した聖職者に代えようとしたが、代理の数が間に合わなかったので、結局は宣誓拒否聖職者が儀式を続けることを認めた。最初の立憲派聖職者は、前司教から聖職相続を得なければならなかったが、旧司教のうちタレーラン司教ただ1人が祝聖を与えることを承諾し、皮肉にも不道徳で有名だった彼の手で多くの司祭が次々と叙階された[注釈 15]。聖職者のなり手も足りなかったので見習い期間が短縮され、立憲派聖職者は急造されていった。

議会は、はじめのうち自らが招いた教会の分裂を認めようとしなかった。しかし新選の立憲派司祭と旧宣誓拒否司祭は方々の教区で対立し、信徒を巻き込んで大きな騒乱となっていた。洗礼、結婚、埋葬の登録簿は立憲派聖職者だけが持っていたので、宣誓拒否聖職者のもとに通っていた信徒は公民権登録ができなかった。特に信心深い女性が立憲派司祭のミサに行かなかったので、彼女らの子供には公民権が与えられない状態であった。国民衛兵はしばしば宣誓拒否聖職者のもとのミサに通い続ける女性たちを嘲弄し、鞭打った。有力者であったラファイエット夫人 (Adrienne de La Fayette) はこのような状況に我慢ならず、パリに新司教ゴベルを迎えることを拒み、夫であるラファイエットは「89年クラブ」[注釈 16]の仲間と相談して、宣誓拒否聖職者にも礼拝所を持てる自由を与えるように議会に提議した。1791年4月11日、議会は宣誓拒否聖職者が閉鎖寺院を使って礼拝をすることを黙認する決議を出した。さらに5月7日、議会はシェイエスの提案で信仰の自由を全般的に認める寛容令を出した。これによって宣誓拒否聖職者の信仰も認められることになったが、こうなると今度は立憲派聖職者が怒り出した。これはローマ教皇に逆らってまで革命に殉じようとした彼らの努力を全く無駄にするものであり、信徒の多くが彼らのもとから離れていったからだ。立憲派聖職者はジャコバン・クラブに集い、官憲と協力して5月7日の礼拝の自由が適用されるのを妨害した。他方、ピウス6世もさらに介入し、シムルタネウム (Simultaneum) [注釈 17]が普通になった時代に、あえてローマ派聖職者(宣誓拒否聖職者)に立憲派聖職者と同一の寺院内で礼拝することを禁じた。
国家宗教

宗教闘争が激しくなると、ジャコバン派は立憲派聖職者を支援して、益々ローマ・カトリック教会への舌鋒を強めていった。カトリックの迷信や狂信との戦いは、革命をより極端な形での宗教からの解放へと向かわせた。教会と国家との分離という、アメリカ人が示したモダンな良識(政教分離)を模倣せずに、フランス革命では一気に飛躍して、無神論、あるいは中立的で非霊的な国家宗教のごとき革命宗教の創設を目指していくことになる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:104 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef