ではなく火の灯ったトーチを中央に置くという初の演出が行われた。トーチを刺した雪の結晶はスタジアムの上に上がった。 聖火台及びその支柱はユニークで大胆なデザインとされることが多く、これらは開会式の間に点火される方法にも関係している。1992年のバルセロナオリンピックでは、火をともすための火矢が聖火台に向かってアーチェリーから放たれた。1996年のアトランタオリンピックでは、聖火台は赤と金で飾られた芸術的な巻物のようだった。同年のパラリンピックでは、半身不随の登山家が聖火台から垂れ下がったロープを登って点火した。 建築家の伊東豊雄によると2016年時点で、複数回同一の都市で開催されたオリンピックを含めて同じ聖火台が2度使われた例は無いという[11]。 国際オリンピック委員会(IOC)はガイドラインで、聖火台を「競技場の観客全てから見える場所に設置」「期間中は競技場の外にいる人々からも見えるように設置」と原則として定めているが、近年は例外も出ている。2012年のロンドンオリンピックでは点火後に競技場の観客席の前部に移設し、外からは見えない状態だった[12]。 1964年東京オリンピックでは、その招致の前哨戦となる1958年の東京アジア大会の聖火台を再利用した。 大会組織委員会から、「納期3か月で製作費は20万円」という条件だった。これは、同様の物を造るとなると最低でも8か月かかるとされ、費用も相場の20分の1の価格であったため、大手企業から軒並み断られてしまった。組織委員会は、当時の川口市長大野元美に対し、アジア大会に間に合わせるため、聖火台の製作を依頼してきた。大野は、鋳物づくりの名工とうたわれた鈴木萬之助
聖火台
1964年東京オリンピックの聖火台1964年東京オリンピックの聖火台
聖火台の製作に入った萬之助は、川口内燃機の社長であった岡村実平(後の川口市長岡村幸四郎の祖父)から作業場を借り受け、三男である鈴木文吾を誘い2か月後に鋳型を完成させたが、湯入れ作業で圧力に負けてボルトが吹き飛び、鋳型に穴が空いたことで爆発事故が起き、このショックと過労で8日後に萬之助は亡くなった[13][14]。しかし、納期までは1か月を切っていたため、文吾は兄弟と萬之助の教えを受けた周囲の職人たちの協力のもと、不眠不休で第二の聖火台を製作して2週間の作業の後、何とか納期に間に合わせ[15]、国立競技場の南側スタンド上部へ設置された。文吾は、「もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだった」という。
この聖火台は東京アジア大会の物であるため、東京オリンピックでは新しい聖火台を製作することが決まっていた。だが、鈴木父子の話を聞いた河野一郎オリンピック担当大臣の英断により、オリンピック聖火台として正式採用されることとなり、オリンピックに向けて行われた拡張工事の際に増築されたバックスタンド上部へと移設された。
聖火台は高さ2.1 m、最大直径も2.1 mで重さは約4トン[16]。設計・デザインは国立競技場の設計者でもある角田栄ほか4名によって行われ、20の横線は、東京アジア大会での参加国・地域の数、波模様は太平洋を表している。
この聖火台は、文吾の手により製作者名として父・萬之助の名を指す「鈴萬」の文字が彫り込まれ、国立競技場が解体されるまで置かれた。解体後、国立競技場建て替えの間は東日本大震災の被災地等に貸し出される事になった。2015年に宮城県石巻市に貸与され、石巻市総合運動公園に設置された[17]。聖火台は2019年3月まで石巻市に展示され[注釈 1]、その後は岩手県と福島県へ貸し出しが行われ、両県内を巡回した[16]。そして、製造地である川口市に戻り、10月6日から2020年3月15日まで川口駅東口の川口駅東口公共広場(キュポ・ラ広場)で展示された[16][18]。展示終了後は、 神奈川県内の工場で燃焼装置を交換するなどの修繕を行った後、6月9日に新国立競技場の東側ゲート正面に移された(当初は4月9日を予定)。 なお、一般公開は2021年に開催が延期された2020年東京オリンピック・パラリンピック終了後(当初は2020年7月以降を予定)となった。
その後、埼玉県から文吾にある依頼が来た。聖火を分火して競技会場に灯す会場に戸田漕艇場が選ばれたため、そのための聖火台を製作して欲しいと言うものだった。文吾は、国立競技場と同じデザインの物を3分の2の寸法で製作した。聖火を分火した他の競技会場ではメイン会場と異なるデザインの聖火台が製作されたが、この聖火台は唯一のメイン会場と同一デザインの聖火台となった。
また、萬之助の聖火台は川口市に引き取られて、市内の青木町公園の英霊記念碑の側に置かれている。2004年に修繕を行い、火を灯せるようになっている。2020年東京オリンピックの聖火リレーの埼玉県内の出発地としてこの場所が選ばれ、萬之助の四男である鈴木昭重が第一走者となる予定であったが、川口市が新型コロナウイルス等蔓延防止重点措置の対象地域とされた事により公道でのリレーが中止になり、萬之助の聖火台の前で出発記念式典が行われた。なお、昭重は埼玉県内の最終日のセレブレーションで、点火セレモニー(トーチキス)でトーチを持った。
炬火第60回国体総合開会式より。
炬火(きょか)とは松明(たいまつ)のことである。
日本では国民体育大会と全国健康福祉祭(ねんりんピック)において炬火リレーが行われている。
国民体育大会では開催地独自に採火されることが決まっていて、開催直前にひとつに集火され開会式において点火される。また、全国障害者スポーツ大会においても同様となる。
全国健康福祉祭では総合開会式場にて採火され、その場で炬火リレーが行われ三世代のランナーで炬火台に点火される(第17回群馬大会より)。
例外としては全国高等学校総合体育大会熊本大会2001ひのくに新世紀総体にて炬火が点火された。 炬火台の点火方法は原則として炬火ランナー2名が階段に登り、その場で点火されるが、1998年のかながわ大会(横浜国際総合競技場)では史上初の8名による炬火点火が行われ、導火線を伝わった白煙の中からの勢いで炬火台に付いた。
炬火台
トーチ詳細は「en:List of Olympic torch designs」を参照@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}各大会のトーチ
1960 ローマ
1964 東京