聖火が衆目を集める理由は、聖火台への点火が開会式のクライマックスとなることにもある。一方では、ショーアップのために点火の「仕掛け」が複雑化し、コストの上昇やトラブルをもたらす問題もあり、回を追うごとにエスカレートする傾向の演出には批判の声もある。
1992年のバルセロナ大会では、パラリンピックのアーチェリー選手アントニオ・レボジョが、スタジアムの端に位置する聖火台へ聖火のついた矢を飛ばし、聖火台上を通過し火がついた。
1994年のリレハンメル大会では、スキージャンパーによってスタジアムに聖火がもたらされた。
1998年の長野大会では開会式場の外側に立つ聖火台にどうやって点火するのか話題となったが、十二単をモチーフにした衣装を身にまとった伊藤が会場内のエレベーターでせりあがり、聖火台に近づいて火をつけた。
2000年のシドニー大会では、池の中にフリーマン自身が入りトーチをぐるりと1周回して点火、その火が付いたリング上のオブジェがせり上がり最上部で聖火台にセットされた。
2002年のソルトレイクシティ大会では、「氷上の奇跡」と呼ばれたアメリカのアイスホッケーチームの20人中17人がトーチを持って聖火台の下にに火をつけた。火は上がっていき聖火台上部に火が灯る。
2004年のアテネ大会では、最終点火者が階段を登るのと同時にすらっと長い聖火台がお辞儀をするように下がってきてそこに点火する。
2006年のトリノ大会では、トンネル形のオブジェの目の前にベルモンド自身が立ち点火。スタジアム全体に花火が打ち上がり聖火台に火が点いた。
2008年の北京大会では、ワイヤーロープを繋いだ李寧が、スタンド最上段に張り巡らされた大型スクリーンの上を疾走するという演出を行い、聖火台直下にあった鉄パイプに点火した。火は鉄パイプを通り、中国の文様などが描かれた聖火台に火がついた。
2010年のバンクーバー大会では、地面から4本の雪をイメージした支柱が伸び4人のランナーが同時に点火する予定だったが、機械の故障で1本が上がらず3本で点火する形となった。しかし閉会式でこのハプニングを逆手に、ピエロがプラグを繋いで引き揚げるという演出がなされ、開会式では点火出来なかったカトリオナ・ルメイ・ドーンが点火している[10]。また、この大会では会場外の聖火台にも点火されている。
2012年のロンドン大会では、競技場の中央に長い棒が放射状に設置され、その先がカラーの花のようになった参加国の数と同じ204本の棒に点火。火が広がり全ての棒に火がつくとトーチが自動的に立ち上がり、すべてが垂直に起立して一つの巨大な聖火台を構成した。
2014年のソチ大会では、開会式会場の外、メダルプラザに聖火台が設置され、聖火台下の点火台に着火すると、炎が聖火台をせり上がり聖火が灯った。観客は聖火台が見えないため、花火で点火が知らされた。
2016年のリオデジャネイロ大会では開閉会式用聖火台がスタジアム内に、大会期間中に聖火を灯すための聖火台が屋外に設置された。開会式では球体のような小さな聖火台に点火され、上昇した聖火台が後ろの太陽をイメージしたオブジェと一体となって輝く太陽となり、会場に光を注ぐ演出がなされた。
2018年の平昌大会では聖火台の下の氷をイメージしたオブジェに点火すると、輪状の棒が伸びて直上の聖火台に火が灯った。
2020年の東京大会では、開閉会式用と大会期間用の聖火台がそれぞれ競技場内と屋外に設置された。富士山の上に球体が乗った形状をしており、点火の際に富士山が開き階段が出てきて、球体が花のように開いた。そこに大坂なおみが点火した。
2022年の北京大会では、参加国の書かれたプラカードを1つの雪の結晶にする演出がなされた。そして最終点火者が雪の結晶の中央に立ち、点火・・・
ではなく火の灯ったトーチを中央に置くという初の演出が行われた。トーチを刺した雪の結晶はスタジアムの上に上がった。 聖火台及びその支柱はユニークで大胆なデザインとされることが多く、これらは開会式の間に点火される方法にも関係している。1992年のバルセロナオリンピックでは、火をともすための火矢が聖火台に向かってアーチェリーから放たれた。1996年のアトランタオリンピックでは、聖火台は赤と金で飾られた芸術的な巻物のようだった。同年のパラリンピックでは、半身不随の登山家が聖火台から垂れ下がったロープを登って点火した。 建築家の伊東豊雄によると2016年時点で、複数回同一の都市で開催されたオリンピックを含めて同じ聖火台が2度使われた例は無いという[11]。 国際オリンピック委員会(IOC)はガイドラインで、聖火台を「競技場の観客全てから見える場所に設置」「期間中は競技場の外にいる人々からも見えるように設置」と原則として定めているが、近年は例外も出ている。2012年のロンドンオリンピックでは点火後に競技場の観客席の前部に移設し、外からは見えない状態だった[12]。 1964年東京オリンピックでは、その招致の前哨戦となる1958年の東京アジア大会の聖火台を再利用した。 大会組織委員会から、「納期3か月で製作費は20万円」という条件だった。これは、同様の物を造るとなると最低でも8か月かかるとされ、費用も相場の20分の1の価格であったため、大手企業から軒並み断られてしまった。組織委員会は、当時の川口市長大野元美に対し、アジア大会に間に合わせるため、聖火台の製作を依頼してきた。大野は、鋳物づくりの名工とうたわれた鈴木萬之助
聖火台
1964年東京オリンピックの聖火台1964年東京オリンピックの聖火台
聖火台の製作に入った萬之助は、川口内燃機の社長であった岡村実平(後の川口市長岡村幸四郎の祖父)から作業場を借り受け、三男である鈴木文吾を誘い2か月後に鋳型を完成させたが、湯入れ作業で圧力に負けてボルトが吹き飛び、鋳型に穴が空いたことで爆発事故が起き、このショックと過労で8日後に萬之助は亡くなった[13][14]。しかし、納期までは1か月を切っていたため、文吾は兄弟と萬之助の教えを受けた周囲の職人たちの協力のもと、不眠不休で第二の聖火台を製作して2週間の作業の後、何とか納期に間に合わせ[15]、国立競技場の南側スタンド上部へ設置された。文吾は、「もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだった」という。
この聖火台は東京アジア大会の物であるため、東京オリンピックでは新しい聖火台を製作することが決まっていた。だが、鈴木父子の話を聞いた河野一郎オリンピック担当大臣の英断により、オリンピック聖火台として正式採用されることとなり、オリンピックに向けて行われた拡張工事の際に増築されたバックスタンド上部へと移設された。
聖火台は高さ2.1 m、最大直径も2.1 mで重さは約4トン[16]。設計・デザインは国立競技場の設計者でもある角田栄ほか4名によって行われ、20の横線は、東京アジア大会での参加国・地域の数、波模様は太平洋を表している。
この聖火台は、文吾の手により製作者名として父・萬之助の名を指す「鈴萬」の文字が彫り込まれ、国立競技場が解体されるまで置かれた。解体後、国立競技場建て替えの間は東日本大震災の被災地等に貸し出される事になった。2015年に宮城県石巻市に貸与され、石巻市総合運動公園に設置された[17]。聖火台は2019年3月まで石巻市に展示され[注釈 1]、その後は岩手県と福島県へ貸し出しが行われ、両県内を巡回した[16]。そして、製造地である川口市に戻り、10月6日から2020年3月15日まで川口駅東口の川口駅東口公共広場(キュポ・ラ広場)で展示された[16][18]。展示終了後は、 神奈川県内の工場で燃焼装置を交換するなどの修繕を行った後、6月9日に新国立競技場の東側ゲート正面に移された(当初は4月9日を予定)。 なお、一般公開は2021年に開催が延期された2020年東京オリンピック・パラリンピック終了後(当初は2020年7月以降を予定)となった。
その後、埼玉県から文吾にある依頼が来た。聖火を分火して競技会場に灯す会場に戸田漕艇場が選ばれたため、そのための聖火台を製作して欲しいと言うものだった。文吾は、国立競技場と同じデザインの物を3分の2の寸法で製作した。聖火を分火した他の競技会場ではメイン会場と異なるデザインの聖火台が製作されたが、この聖火台は唯一のメイン会場と同一デザインの聖火台となった。
また、萬之助の聖火台は川口市に引き取られて、市内の青木町公園の英霊記念碑の側に置かれている。2004年に修繕を行い、火を灯せるようになっている。2020年東京オリンピックの聖火リレーの埼玉県内の出発地としてこの場所が選ばれ、萬之助の四男である鈴木昭重が第一走者となる予定であったが、川口市が新型コロナウイルス等蔓延防止重点措置の対象地域とされた事により公道でのリレーが中止になり、萬之助の聖火台の前で出発記念式典が行われた。なお、昭重は埼玉県内の最終日のセレブレーションで、点火セレモニー(トーチキス)でトーチを持った。
炬火第60回国体総合開会式より。
炬火(きょか)とは松明(たいまつ)のことである。