聖徳太子
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ この文書は醍醐寺が所蔵する書物で、聖徳太子本人が書いたとされる史料ではあるが、奥付きには天平19年(747年)の成立とある。このため、実際の成立年代には論争があり、孝徳天皇期から平安時代までの幅広い期間で諸説が検討されている。[10]
^ 『宋書』巻十七志第七禮四「皇太子入住上宮」
^ 『南斉書』卷二十一列傳第二「太子與竟陵王子良?好釋氏、立六疾館以養窮民。風韻甚和而性頗奢麗、宮?殿堂、皆雕飾精綺、過於上宮。」
^ 懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」
^ 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令での成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』吉川弘文館、1985年[要ページ番号])が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急な死去により竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が死去するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする[20]
^ 開皇20年(600年)『隋書』に、?國の「?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}?彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。この使者は「?王は天を兄とし、日を弟とする」即ち天・王・日は三兄弟であると述べ、高祖は「甚だ義理なし」と応じたという。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「?」と表記したとする説が有力である。
^ 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。『日本書紀』は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
^ 日本書紀は隋を大唐国としている。また、『日本書紀』には国書の内容(「日出る処…」)の記述はない。
^ 『日本書紀』には遣隋使という文字はない。隋という国名も618年高句麗が隋の捕虜を献上した記事に登場するのみである。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝開皇11年(591年)に菩薩戒により総持菩薩となったのは父の文帝であり、自分の即位を知らなかったことも煬帝を怒らせた)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとされる。また、「天子」という表現も天子とは天帝の子である皇帝を意味するとしてきた隋側には許容できないものであった。この国書は?國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の?國と結ぶ必要があった。
^ 皇帝が「倭皇」の文字を用いるとは常識的には考え難く、実際は「倭王」であったと見る意見が多いが、隋と並ぶ天子を称する非常識な相手への返書であり、高句麗の背後にあることから倭王の無礼を受忍し、倭への冊封ではあるが「皇帝」の「皇」を与えたとも考えられる。「王」を改竄して「倭」を改竄しないのも不自然であり、隋から「皇」を与えられて「天皇」を名乗ったように改竄するのは皇国史観に反する改竄になる。『隋書』は倭王に会った時と帰国する前の裴清の言葉を記すが、国書を載せていない。
^ 『隋書』にこの記述はない。
^ どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。『日本書紀』の古訓では「倭皇」「東天皇」をどちらも「やまとのすめらみこと」と読んでいる。
^ 田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を藤原兼輔とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(『日本大百科全書』(小学館[要ページ番号]) )。
^ 久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説(手島郁郎太秦の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年[要ページ番号])が代表例)も存在する。
^ 妙法蓮華経法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)
^ 万葉集(『萬葉集』巻三 415)では片岡山ではなく龍田山とある。
^ 拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『源氏物語』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ源典侍にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください。与謝野晶子訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」
^ 『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『荘子』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は仙人尸解仙(しかいせん)にも類似し、『新約聖書』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と道教に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している[要出典]。
^ 叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝-室町時代の制作)は2008年に修復が完成した。
^徒然草』第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」
^ 1675年延宝3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は1679年延宝7年)に現れた偽書『先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。
^ 原文:「佛智不思議の誓願を 聖コ皇のめぐみにて 正定聚に歸入して 補處の彌勒のごとくなり」
^ 原文:和國のヘ主聖コ皇 廣大恩コ謝しがたし 一心に歸命したてまつり 奉讚不退ならしめよ
^ 和国の教主とは、日本に生まれて正法を興した主。釈尊を教主世尊と崇めるのに準じて、太子を日本の教主と尊称する。(名畑應順親鸞和讃集』p.198)
^ 江戸時代の公家である野宮定基は元禄元年11月5日の日記において、「世間では聖徳太子は聡明だと称されて尊敬されているが自分が違うと思う」と述べ、蘇我馬子が崇峻天皇を殺害したときに何もしなかったこと、聖徳太子が仏教を広めたことで神仏習合が起こり神道が有名無実となったことを批判した上で、「聖徳」ある者がそのようなことをする訳がない、と書き記している。そして、将軍や摂政以下皆が仏法を尊んでいることを嘆く仏教批判へと話を広げていく。ただし、当時の江戸幕府が朝廷を統制し、仏教界とも密接である(寺請制度など)中でこれらの意見を公言することは危険であるとの認識から、死後に焼却して欲しいとも書き記している[39]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:168 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef