聖徳太子
[Wikipedia|▼Menu]
また「耳(みみ)」は、神八井耳命布帝耳神のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世(奈良時代以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる[17]
尊称

『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている[7]。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注釈 5]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[18]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。

713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[19]と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

またこれらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)[8]」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。
略歴聖徳太子立像(飛鳥寺

敏達天皇3年(574年)2月7日、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に現在の奈良県明日香村に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)のを得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。(丁未の変

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[注釈 6]となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇5年(597年)、吉士磐金新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注釈 7]

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。

推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある[21]。書生を選び、来日した観勒を学ばせる。

推古天皇11年(603年12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

推古天皇12年(604年4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。[注釈 8]

推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。

推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子鞍作福利を使者とし隋に国書[注釈 9]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた[注釈 10]。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)[注釈 11]とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[注釈 12]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「東天皇」[注釈 13]としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理南淵請安ら留学生と共に再び隋へ派遣した。

推古天皇20年(612年)、百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。

推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり[22]、現在の竹内街道とほぼ重なる。

推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年(613年))を著した。これらを「三経義疏」と総称する。

推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:168 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef