聖徳太子
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「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり[5]、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく[9]田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった[5]。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』[注釈 2]が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている[11]

『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている[11]。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている[12]。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない[13]

また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している[13]顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある[7]

「上宮」の語は、古くは中国の歴史書『宋書[注釈 3]や『南斉書[注釈 4]に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている[14]。また、南朝における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から百済を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する[15]

「厩戸」の語は、厩戸皇子やその一族と関係が深い片岡や馬見丘の地に、馬産に関わった渡来人、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂といった馬産に関する地名があったことなどが関連するとする説がある[16]

「豊聡耳」の語は、「天寿国?帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあることから、飛鳥時代には「とよとみみ」と読まれていたことがわかる(厩戸皇子の存命中にそのように呼ばれたかは不明)。また「耳(みみ)」は、神八井耳命布帝耳神のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世(奈良時代以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる[17]
尊称

『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている[7]。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注釈 5]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[18]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。

713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[19]と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

またこれらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)[8]」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。
略歴聖徳太子立像(飛鳥寺

敏達天皇3年(574年)2月7日、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に現在の奈良県明日香村に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)のを得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。(丁未の変

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[注釈 6]となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇5年(597年)、吉士磐金新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注釈 7]

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。


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