1380年、ジョン・ウィクリフが聖書の英語訳を行い、また神学面でもローマ・カトリックに異を唱え、ロラード派と呼ばれる初期宗教改革運動が始まった。 イングランド王ヘンリー8世の時代、国王の離婚問題やローマ教皇庁に対する献金などの問題からイングランドと教皇庁との対立が生じ、1534年、ヘンリー8世はイングランド王をイングランド全教会の首長とする「国王至上法」(首長令)を公布し、ローマ・カトリック教会からの独立を宣言した。しかし、この時点ではあくまでローマ・カトリックの教義・典礼を残したまま、国家単位での組織的な独立のみを図った。これがヨーロッパ大陸におけるルターやカルヴァンらの宗教改革との決定的な相違点である[32]。のちの時代にフランスで興ったガリカニスムに近い。 1547年、ヘンリー8世が崩御してエドワード6世の治世に入ると、カンタベリー大主教トマス・クランマーらの主導により、内容的にも独自の宗教改革が進められた。1553年、クランマーは、ルター派との話し合いから生まれた『42箇条』を作成した[33]。しかし、同年にメアリー1世が即位すると、ローマ・カトリックへの復帰を進め、『42箇条』は廃棄され、1556年にはクランマーも処刑された。1558年にエリザベス1世が即位すると、カンタベリー大主教マシュー・パーカーらの主導で再びプロテスタント的な改革が進められ、エリザベス1世は1559年に改めて国王至上法を採択し、1563年には『イングランド国教会の39箇条』を発布して、ローマ・カトリックと完全に決別した[34]。しかしエリザベス1世のもとでの改革は、ローマ・カトリックへの復帰も急進的なプロテスタント化(ピューリタン)も退ける穏健・中立的な方針であり、「Via Media」というスローガンもこの頃に定まった。 その後も、チャールズ1世(在位1625年?1649年)の代には、ローマ・カトリックに親和的な反動政策と、ピューリタン弾圧や、1567年以来カルヴァン主義の長老派教会が国教(スコットランド国教会)となっていたスコットランドに対してもイングランド国教会の支配を強要しようとしたなどの問題が契機となって清教徒革命が勃発するなど、英国の宗教事情はカトリック的な伝統維持とプロテスタント的な改革を行き来したが、大局的には「Via Media」の精神が貫かれた。 1784年、アメリカ合衆国の独立に伴って米国聖公会が成立し、英国領土以外では初の独立した聖公会となった。1867年には第1回ランベス会議が開催され、「アングリカン・コミュニオン」という国際的教会連合となっていった。 1833年にはイングランド国教会内において、オックスフォード運動と呼ばれる典礼および神学上の復古運動が始まり、カトリック的な伝統への回帰の動きが高まった。 他方、イングランド国教会の司祭であったジョン・ウェスレー(1703年?1791年)による、改革派プロテスタントの一派・アルミニウス主義に立脚したメソジスト運動が興され、メソジスト監督教会として聖公会から分離独立するなどの動きも出た。 現代においては、女性の聖職者を認めるか否かや、性的少数者に対する姿勢などの問題で、社会思想上の保守派と革新派の対立が生じており、保守的なグループが分離独立したり、聖職者がローマ・カトリックに改宗するなどの問題が起きている。(詳細は「エキュメニズム#失敗・分裂」を参照) 世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合を、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)という。アングリカン・コミュニオンは原則的にイングランド国教会を母体とし、カンタベリー大主教の名誉的地位を認めるが、カンタベリー大主教には自管区以外の全聖公会に対する裁治権はない。聖公会の教会組織は、国や地域ごとに独立して自治を行う形態をとっている[35]。 旧英国植民地を中心とする多くの地域の聖公会では、英国に端を発した教会という意味で、「アングリカン・チャーチ・オブ・国名」を用いる[36]。 いくつかの国では「監督派教会」(エピスコパル・チャーチ:Episcopal Church)として知られる[37]。アメリカ独立戦争の時にイングランド国教会との関係が断たれて、聖職按手などをスコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の協力の下で行なったので、米国聖公会(Episcopal Church in the U.S.A.)がそう呼ばれるようになったからであり、実際は聖公会の他にもルター派やメソジスト監督教会などの監督制の教会が存在する。スコットランド聖公会が監督派と呼ばれるようになった所以は、長老派のスコットランド国教会が多数派かつ国教であるのに対して、また清教徒革命(イングランド内戦)の時にイングランド国教会派側と対立した長老派と組合派(独立派)に対して、あくまで歴史的主教制(監督制)の維持を重んじるスコットランド聖公会がそう呼ばれるようになった。 特異な例としては、イングランド国教会にもスコットランド聖公会にもルーツを持たず、19世紀に復古カトリック教会の流れからローマ・カトリックと分離し、のちにアングリカン・コミュニオンの一員となった、スペイン改革監督教会 世界の聖公会(および復古カトリック教会など聖公会とフル・コミュニオンの関係にあるいくつかの教会)の主教が10年ごとに集まり、意見を交換するランベス会議が開催される。この会議には公会議と違って裁治権はなく、交流会・相互学習会的なものである。 また、1979年から、アングリカン・コミュニオンの自立した教会の首座主教 が、2, 3年に一度、神学的・社会的・国際的な課題を協議するために集まる全聖公会中央協議会 聖公会系の教会は、大英帝国の植民地の拡張に伴い、米国聖公会(米国における教会員はおよそ300万人である)、カナダ聖公会(信徒数は200万人を越えている)、オーストラリア聖公会 (オーストラリア全人口の約20%がこの教会に所属している)、ニュージーランド、南アフリカ等で信者を増やしていった。現在ではイギリス国外における信者の人数が、国内の信者の人数を上回っており、その大部分はアフリカで占められる[注 6]。 「Via Media」の精神の1つとして「多様性の中の一致(Unity in Diversity)」という精神もあることから、多くの聖公会はエキュメニズム運動に対して積極的である[13][14]。アングリカン・コミュニオンとして世界教会協議会(WCC)に加盟している。日本聖公会は、日本キリスト教協議会(NCC)に加盟している。 1870年の第1バチカン公会議に異を唱えてローマ・カトリック教会から分離し、オランダ・ドイツなどに分布する復古カトリック教会や、聖公会とプロテスタント諸教派の合同教会である北インド教会・南インド教会・パキスタン教会
宗教改革期
近世?現代
組織
系譜と名称
会議
信者数
他教派との関係2種類のアングリカン・ロザリー