本作は、「こちら側は焼けたから、裏返して焼け」といったという、苦痛に対するラウレンティウスの我慢強く皮肉な反応の完璧な描写に達している。画面前景手前と奥にいる人物たちの間の引っ張りあうような対位法、鑑賞者に対して脚を突き出したラウレンティウスの身体の鋭い前面短縮法、色彩の寒暖の強烈さは、情景のドラマを高めるよう目論まれている。ローマ人の責め立てる激しさは、天国に自らの救いを求めている聖人の受容的な身振りを引き立てる作用をしている[1]。
この画面の闇の中では、光が何よりも効果をあげている。風にたなびくたいまつ、焼き網道具を通して見える灼熱している炎や、光を反射する武具、人や物の輪郭を照らしているハイライトなどは、ティツィアーノの絵画技法の示威である。しかし、それ以上に、そうした光の描写は、殉教者ラウレンティウスの上に開かれている天国の神々しい光と対照をなして、地上の物質を示す劇的で象徴的な効用を持っている[1]。
ティツィアーノは、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』中の、「その同じ夜、ラウレンティウスは再びデシウスの前に引き出された。…それから、彼に対してあらゆる拷問が加えられた。そしてデシウスが言った。『神々に犠牲を捧げよ、さもなくば汝を夜を徹してさいなまん!』するとラウレンティウスが答えた。『わが夜に闇なし、ものみな光り輝けり!』に示唆されたように思われる[1]。
エル・エスコリアル修道院のヴァージョンティツィアーノ『聖ラウレンティウスの殉教』 (第2ヴァージョン)、415 x 297.5センチ、エル・エスコリアル修道院
1564年、スペイン王フェリペ2世はティツィアーノに別の『聖ラウレンティウスの殉教』を委嘱した[3]。この作品は1568年にスペインに到着し、1574年にエル・エスコリアル修道院に移された[3]。
作品の委嘱と制作については、フェリペ2世とヴァネツィアにいた大使たち、そしてティツィアーノ自身との詳細な文通によってよく知られている。また、1566年にビーリ・グランデ (Biri Grande) にあったティツィアーノの工房を訪れた『画家・彫刻家・建築家列伝』の著者ジョルジョ・ヴァザーリなど著名な訪問客の証言もある[3]。
この複製で、ティツィアーノは、聖ラウレンティウスが乗せられている焼き網の周囲にいる処刑者の数と左側の女神像の置かれている台座は原作と同じにしている[3]。しかし、聖人の実際の殉教の歴史的状況 (聖人の殉教はオリンピアデス浴場で起きた) を再現すべく、原作にある壮大な建築的、舞台的設定を全部排除し、この複製では夜の闇に?まれているポルチコ (建物の玄関に続く柱廊) に置き換えている。もう1つの大きな革新は画家が用いている新たな照明方法で、夜の雰囲気を出すためにあらゆる可能性を利用しており、焼き網の下の炎と女神像の下に配置されている灯りの強い光のために聖人の身体はより一層のハイライトとなっている。 この作品は、ティツィアーノの夜景図の中でも最も印象的な作品である[3]。 スペイン国家遺産公式サイト、ティツィアーノ『聖ラウレンティウスの殉教』 (英語)
脚注^ a b c d e f g h デーヴィッド・ローザンド 1978年、114頁。
^ a b “The Martyrdom of St Lawrence, 1557-59 by Titian”. www.titian.org. 2023年11月2日閲覧。
^ a b c d e f “Martyrdom of Saint Lawrence”. スペイン国家遺産公式サイト (英語). 2023年11月13日閲覧。
^ 「聖書」と「神話」の象徴図鑑 2011年、154頁。
参考文献
デーヴィッド・ローザンド 久保尋二訳『世界の巨匠シリーズ ティツィアーノ』、美術出版社、1978年刊行 ISBN 4-568-16046-4
岡田温司監修『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』、ナツメ社、2011年刊行 ISBN 978-4-8163-5133-4
外部リンク
表
話
編
歴
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
世俗画
『田園の奏楽』(1509年)
『アドニスの誕生』(1505年-1510年頃)
『ポリュドロスの森』(1505年-1510年頃)
『合奏』(1510年頃)
『眠れるヴィーナス』(共作、1510年頃)
『懇願』(共作、1510年頃)
『恋人たち』(ティツィアーノ帰属、1510年頃)
『人生の三世代』(1512年-1514年)
『聖愛と俗愛』(1514年頃)
『神々の饗宴』(1514年頃)
『ヴィオランテ』(1510年-1515年頃)
『笛を持つ少年』(ティツィアーノ帰属、1510年-1515年頃)
『鏡の前の女』(1515年頃)
『フローラ』(1515年頃)