聖冠の起源について、有名だが信頼性に欠けるこんな話がある。ティートマル・フォン・メルゼブルク(Thietmar von Merseburg, ? - 1018年)による報告で、そこには神聖ローマ皇帝オットー3世がイシュトヴァーン1世の戴冠に同意し、教皇も祝福を与えた、と記述されており、多くの歴史家がこのとき聖冠も与えられたのだと主張したが、この報告には王冠についての記述は全くなく、聖冠がローマ教皇から与えられたものだとする根拠とはならなかった。
これら2つの説――ベーラ3世の時代に作られたとする説と、教皇から授与されたとする説の他にも、はるか古代やアジアに起源を求める数多くのロマンチックな伝説が存在する。
イシュトヴァーン1世の時点での聖冠はどの辺りまでかという疑問は、1978年に冠がハンガリーに返還され、一通りの調査が可能になるまで棚上げになっていた。
エナメル画に使われている技法が複数あることや、彫刻がサークレット部(コロナ・グラエカ)でギリシャ語、バンド部(コロナ・ラティーナ)でラテン語であることなどを考えると、2つのパーツがそれぞれ異なる時代に作られた、ということになる。しかしながら、王冠を分解した記録はまったく残っておらず、記録上はイシュトヴァーン1世が戴冠したものと同一のものと見なされていたのである。
聖冠は戴冠式の際にのみ使用され、使用しない時は常に2人の王冠守護者に守られている。王冠守護者以外にこの聖冠に触れることができるのは2人だけである。時のハンガリー宮中伯(ハンガリー語版)(俗界最高の地位)が戴冠式の間、聖冠を台座に起き、時の大司教(聖職者最高の地位)が王に冠をかぶせる。
聖冠はこれまでに、盗まれたり、隠されたり、失われたり、国外へ持ち出されたりもした。戴冠の宝物は王が空位の間セーケシュフェヘールヴァールに保管されていた。その後はヴィシェグラード、ポジョニ(ブラチスラヴァ)、ブダを転々とした。第二次世界大戦中は西ヨーロッパに運ばれ、最終的にはソ連から逃れるためアメリカ軍に引き渡され、フォート・ノックス(英語版)(ケンタッキー州にある陸軍駐屯地)に、同時期大量に集まった金とともに保管された。
水面下での広範な調査で王冠が本物であると確かめられた後、アメリカ政府の命令で王冠はハンガリーに返還された。1978年、ジミー・カーター大統領の下でのことで、ハンガリー王家の服飾についての学術的調査が始まったのはここからである。共産主義の凋落の後、1990年に王冠は紋章への復帰を果たした。国民議会は、コシュート・ラヨシュが1849年に定めた王冠のない紋章よりも、戦前の紋章を選んだ。
2000年1月1日、聖冠と笏・宝珠・剣はハンガリー国立美術館から国会議事堂へと移動された。
王冠の構成王冠の絵図 1792年当時のもの(左が前面、右が後面)1857年の図
聖冠は金製で、90のエナメル画、宝石、天然の真珠、 アルマンディン等でできており、構造上3つに分けることができる。