考証学
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一方、皖派は安徽省出身の江永によって始められ、戴震・段玉裁・王念孫・王引之の四人(戴段二王)によって発展された。このため皖派の主流を戴段二王の学と呼ぶ。

呉派と皖派の両派は浙西学派とも総称される。浙西学派が顧炎武を始祖として音韻学・訓詁学・金石学といった言語学的研究や礼学を重視するのに対し、歴史学を重視する黄宗羲を始祖とする浙東学派(浙東史学(中国語版))があり、万斯大万斯同全祖望章学誠邵晋涵らがいる。章学誠は「六経皆史」の説を唱え、経書研究に史学的視点をもたらした[4]

清代中後期には、汪中阮元焦循・劉宝楠(中国語版)ら、主に揚州府出身の学者たち(揚州学派(中国語版))によって乾嘉学派の手法が継承された。
末期

清代末期には、鄭玄に代表される後漢の経学よりも、前漢の経学、とりわけ公羊学に基礎を置く常州学派が隆盛となった。

清代末期に考証学は衰退したが、その余波は兪?孫詒譲王先謙、およびその次代の章炳麟劉師培王国維梁啓超といった学者を生んだ。清末の彼らも多様な分野を扱ったが、なかでも諸子学を主に扱った[5][6][注 1]。とりわけ章炳麟らの世代は、西洋の未知の思想を受容する際、それらを諸子の思想に見立てて理解しようとした[5][注 2]

考証学の歴史は、清代中後期の江藩(中国語版)『国朝漢学師承記』や、上記の梁啓超の『清代学術概論(中国語版)』によってまとめられた。特に梁啓超は、「ルネサンス」「帰納法」といった西洋の術語を用いて考証学を説明した[9]
梁啓超による概括
正統派の学風

梁啓超によれば、清朝考証学の正統派は以下のような学風をもつという[10]
およそ一つの解釈をおこなうには、必ず証拠による。証拠なくして臆測するというのは、断固として排斥するところである。

証拠を選択するには、古えを尊ぶ。漢・唐の証拠によって宋・明を批判するが、宋・明の証拠によっては漢・唐を批判することをしない。漢・魏によって唐を批判してよく、漢によって魏・晋を批判してよく、先秦・前漢によって後漢を批判してよろしい。経によって経にを証明すれば、すべての経伝を批判してよろしい。

一つの証拠によって定説とはしない。反証のないものはしばらくおいて、続証を得てはじめて信用する。有力な反証にあえば放棄する。

証拠を隠匿すること、あるいは証拠を曲解することを、すべて不徳と考える。

同類の事項をならべて比較研究し、その方法をもとめることをもっともよろこぶ。

従来の学説を採用したばあいには、必ず明記し、剽窃を大なる不徳と考える。

意見があわなければ、たがいに論争する。弟子が師を反駁非難することをも辞さない。受けてたつ者も、それを師にさからうこととはけっして考えなかった。

論難は、ある問題を範囲として設定し、温厚篤実なる言葉を用いるようにする。自己の意見をまげることはけっしてしないが、同時に、他人の意見をも尊重する。いたけだかにやっつけたり、つまらぬことでひっかけたり、暗に皮肉を言ったりすることを不徳と考える。

専門的に一つの事を研究し、「搾く、かつ深く」研究することをよろこぶ。

素朴、簡潔なる文体を貴び、「言葉に枝葉ある」ことをもっときらう。

このように考証学は、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度を指し、典籍を精細に読破して古義を闡明せんとするものであった。
方法論

梁啓超によれば、清代の学者の学問研究は、純粋に帰納法を用い、また純粋に科学的精神を用いる。このような方法と精神は以下の順序を踏むことで実現することが可能である。
必ずまず事物を注意して観察することであり、どの点とどの点とが特別に注意を払う価値があるのかを見極めること。

一つの事項に注意したならば、その事項と同類もしくは相関連したものをすべて並べて比較研究すること。

比較研究した結果、自己の意見を一つ立ててみること。

この意見に基づいて、さらに正面、側面、反面からひろく証拠をもとめ、証拠がそろえば定説として述べ、有力な反証にあえばこれを捨てること。

およそ近世のあらゆる科学の成立は、すべてこの階梯にしたがったものであり、清代の考証家の立説もまた、一つ一つ必ずこの階梯を踏んだものとなっている[11]
分裂

梁啓超によれば、清代後期の道光咸豊以降、考証学は分裂した。分裂の原因に関しては「学派自体に由来するもの」と「環境の変化によって促進せられたもの」とに分かれる[12]
学派に由来するもの
考証学の研究方法は甚だ優れているものであったが、研究方法がすこぶる限定せられていた。特に立派な成果をあげていたのは
訓詁の部門のみであったとされる。また清学が明学に代わって盛んとなったのは「実学」であることを提唱したためであるが、実際には「実」の字を貫徹出来なかったがために衰退していったとされる。

学派自体に欠陥があるうえに、専制をおこなったためである。

清学派は、古えを尊重することを人に教え、加えて絶えず疑問を持つことを人に教えたとされる。みなが信じているものにおいても常に疑いをもってかかる。その教えにより、この学派から新しい別の考えを持つものが生まれることは必然であり、故にこの学派の運命を根本から動揺させることとなった。

環境の変化によって促進せられたもの
清初の「経世致用」の学派が断絶した理由は、学風が帰納的な研究方法に走って空論を排したため、当局の嫌疑を避け、しばらく身を潜めたためである。

そもそも学問の継続的な発展には、比較的太平の世が続いた時代であることが不可欠であるが、清学の根拠地である江浙は威豊・同治の乱(
太平天国)で被害を受け、文献も失われているため、学問が衰退するのは当然のことであった。

海禁が解かれ、「西学」が次第に輸入されたことにより、きわめて幼稚な西学の知識と、清初啓蒙期の経世の学とを相結合させ、別に一学派を樹立して、正統派にたいして公然と反旗をひるがえすことにつながった。

思想史家による概括
実事求是について

宋明学にあたっては、相対的に経書の解釈は第二義的なものとされて、主観的な解釈が主流を成していたといえる状態であった。


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