考古学
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日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法[注 5]を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである[5][注 5]

日本では、動物学者エドワード・モース1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある[6]。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト、シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている[要出典]。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『考古説略』によってなされた。

アジア各地へ出て行く日本人学者には、興亜院外務省朝鮮総督府満州国満鉄関東軍の援助があった。これらの調査研究も、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者(当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった[7]

宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学黒板勝美)と京都帝国大学喜田貞吉浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。

また20世紀の間に、都市考古学(英語版)、科学を利用した考古科学(英語版)、ダムなどで考古学遺跡の破損が予定される現場での緊急発掘調査救出考古学(英語版)(レスキュー・アーケオロジー)の発展が重要となった。

戦後になってからは皇国史観によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、遺伝子研究や放射性炭素年代測定などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。

2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。
現代考古学の特徴

現代考古学の特徴としては、
他の学問分野(
原子物理学化学地質学土壌学動物学植物学古生物学建築学人口統計学冶金学社会学地理学民俗学文献学認知科学など)との連携がいっそう進んでいること

考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていることであれば大丈夫だというヌワラエリがあげられる。

考古学の諸分野
プロセス考古学
(英語版)/ニュー・アーケオロジー
60年代にアメリカの考古学者ルイス・ビンフォードが確立させた考古学的方法論。従来の伝播主義的考古学に反論し、社会内部あるいは社会間で働いている多様なプロセスを抽出し分析する事を目指している。そこでは、社会と自然環境の関係、生業や経済活動、集団内での社会関係、これらに影響を与えるイデオロギー信仰、さらには社会単位間の相互交流の効果などが重要視されている。プロセス考古学の発展の中で、考古資料と過去に関する見解の橋渡しを行うための中範囲理論(Middle Range Theory)が登場し、その理論を実践するために実験考古学民族考古学歴史考古学が派生した。
実験考古学
過去の遺構遺物を模式的に製作・使用・破棄する事によって、現在の遺構・遺物がどのような工程を経て現状に至ったのか考察する研究領域。例えば、原石から石器を製作して使用したり、粘土から土器を製作して調理を行ったりして使用痕を分析する。また、住居を建築した後、放火などの破棄を行ってその後の層位の堆積状況を観察する事もある。
民族考古学(ethnoarchaeology)
現存する伝統的文化を保持する小規模な民族集団を調査し、そこで得られた知見に基づいて、過去の考古学上のデータから様々な人間の活動パターンを復元する際の比較資料やモデルを作り出そうとしたり、ある考古学上の仮説を検討する基礎にしようと試みるものである。
歴史考古学 / 有史考古学(Historical archaeology)
考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。これにより文献資料では空白部分であった情報が、考古学資料によって補完されるようになった。日本では主に奈良時代以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例(法隆寺再建非再建論争などが顕著な例)もある。
ポスト・プロセス考古学(英語版)[8]
70年代、イギリスの考古学者イアン・ホダーとアメリカの考古学者マーク・レオーネを中心にプロセス考古学への批判から形成された。解釈学的考古学とも呼称される。構造主義批判理論・新マルクス主義的思考に影響を受けつつ、一般化を避け「個別的説明」を行う傾向がある。
認知考古学
1990年代からよく使われるようになった。認知科学[注 6][9]、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。過去に生きた人々の心の研究(推測や復元)は、検証可能性や実証性を保とうとすることが大変難しい[9]
産業考古学
詳細は「産業考古学」を参照
戦跡考古学
近現代における国内の戦争の痕跡(戦争遺跡)を扱う我が国の近現代考古学の一分野。対象となる戦争遺跡は単に戦闘の跡に留まらず、師団司令部や航空機の墜落跡、掩体壕、水没艦船、防空壕軍需工場、さらには現存する当時の精神的支柱(八紘一宇の塔・忠魂碑)などと、非常に多岐にわたる。1984年に沖縄県の當眞嗣一が提唱した。激戦地であった沖縄では、盛んに調査が行われている[10]。戦跡考古学に対しては、民俗学建築学など様々な方面からのアプローチが可能である。一部では外国の戦跡の研究(中国の虎頭要塞731部隊施設の研究、南洋諸島に点在する旧日本軍の軍事兵器など)も行われている。研究者として、坂誥秀一らがあげられる。
水中考古学海洋考古学
水中にある遺跡や遺物などを調査する考古学。19世紀スイスの杭上家屋跡[注 7]の確認を契機に、フランスのクストーが世界各地の海底遺跡の調査を開始したのが始まりである。日本でも、地すべりで琵琶湖湖底に沈んだ古代の集落や、長崎県鷹島沖の元寇の際の沈没船などの研究が行なわれている。
宇宙考古学(英語版)(衛星考古学)
1972年ランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測の技術は、気象、災害、環境、海洋、資源など、さまざまな分野の調査や研究に応用され、これまでに多くの成果をあげてきた。衛星に搭載されるセンサの解像力が高度化し、マイクロ波センサや赤外線により地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきた。この宇宙からの情報技術を考古学研究に応用したのが宇宙考古学である。坂田俊文は、この方法によってエジプトの未知のピラミッドを発見している。なお、疑似科学古代宇宙飛行士説も「宇宙考古学」と称することがあるが、これとは完全に別物である。
環境考古学
文明や歴史を、その自然環境との関係を重視して研究する分野。1980年安田喜憲が提唱した。1999年刊行の『新編高等世界史B』[注 8]には、環境考古学の成果が採用された。2003年に入って、安田以外の研究者による環境考古学と題する本[11]が刊行された。


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