考古学
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考古学は、遺物型式学的変化と、遺構切り合い関係土層遺物包含層)の上下関係といった層位学的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「編年」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば土器の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。
考古学の位置付け

日本では従前より日本史学東洋史学西洋史学と並ぶ歴史学の四分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。

アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流である。
考古学史

考古学は近代西洋に生まれた比較的新しい学問だが、前近代から世界の諸地域で考古学と類似する営みが学界内外で行われていた(好古家を参照)。

近代的な考古学は、18世紀末から19世紀にかけて、地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ(英語版)[注 2]ウイリアム・フリンダース・ペトリ[注 3]らによって始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラー(英語版)らに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて物理学数学などの純粋科学(理学)を考古学に取り入れたプロセス考古学(ニューアーケオロジー)[注 4]がアメリカを中心として一世を風靡した[4]
西洋考古学史「en:History of archaeology」も参照
中国考古学史「中国考古学」を参照
日本考古学史「好古家#日本」も参照日本考古学発祥の地碑
那須国造碑のある笠石神社。碑文の検証のため徳川光圀による日本最初の発掘調査が上侍塚古墳下侍塚古墳で実施された。

日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法[注 5]を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである[5][注 5]

日本では、動物学者エドワード・モース1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある[6]。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト、シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている[要出典]。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『考古説略』によってなされた。

アジア各地へ出て行く日本人学者には、興亜院外務省朝鮮総督府満州国満鉄関東軍の援助があった。これらの調査研究も、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者(当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった[7]

宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学黒板勝美)と京都帝国大学喜田貞吉浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。

また20世紀の間に、都市考古学や考古科学、後には救出考古学(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。

戦後になってからは皇国史観によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、遺伝子研究や放射性炭素年代測定などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。

2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。
現代考古学の特徴

現代考古学の特徴としては、
他の学問分野(
原子物理学化学地質学土壌学動物学植物学古生物学建築学人口統計学冶金学社会学地理学民俗学文献学認知科学など)との連携がいっそう進んでいること

考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていることであれば大丈夫だというヌワラエリがあげられる。

考古学の諸分野
プロセス考古学
(英語版)/ニュー・アーケオロジー
60年代にアメリカの考古学者ルイス・ビンフォードが確立させた考古学的方法論。従来の伝播主義的考古学に反論し、社会内部あるいは社会間で働いている多様なプロセスを抽出し分析する事を目指している。そこでは、社会と自然環境の関係、生業や経済活動、集団内での社会関係、これらに影響を与えるイデオロギー信仰、さらには社会単位間の相互交流の効果などが重要視されている。プロセス考古学の発展の中で、考古資料と過去に関する見解の橋渡しを行うための中範囲理論(Middle Range Theory)が登場し、その理論を実践するために実験考古学民族考古学歴史考古学が派生した。
実験考古学
過去の遺構遺物を模式的に製作・使用・破棄する事によって、現在の遺構・遺物がどのような工程を経て現状に至ったのか考察する研究領域。例えば、原石から石器を製作して使用したり、粘土から土器を製作して調理を行ったりして使用痕を分析する。また、住居を建築した後、放火などの破棄を行ってその後の層位の堆積状況を観察する事もある。
民族考古学(ethnoarchaeology)
現存する伝統的文化を保持する小規模な民族集団を調査し、そこで得られた知見に基づいて、過去の考古学上のデータから様々な人間の活動パターンを復元する際の比較資料やモデルを作り出そうとしたり、ある考古学上の仮説を検討する基礎にしようと試みるものである。
歴史考古学 / 有史考古学(Historical archaeology)
考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。これにより文献資料では空白部分であった情報が、考古学資料によって補完されるようになった。日本では主に奈良時代以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例(法隆寺再建非再建論争などが顕著な例)もある。
ポスト・プロセス考古学(英語版)
70年代、イギリスの考古学者イアン・ホダーとアメリカの考古学者マーク・レオーネを中心にプロセス考古学への批判から形成された。解釈学的考古学とも呼称される。構造主義批判理論・新マルクス主義的思考に影響を受けつつ、一般化を避け「個別的説明」を行う傾向がある。
認知考古学(英語版)
1990年代からよく使われるようになった。認知科学[注 6][8]、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。過去に生きた人々の心の研究(推測や復元)は、検証可能性や実証性を保とうとすることが大変難しい[8]


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