老子
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書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[3]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある[4]

老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[5]。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[6][7]
老子の履歴
史記の記述

老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家司馬遷紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝[8][9]」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。1.老子者,楚苦縣視ス曲仁里人也,姓李氏,名耳,字?,周守藏室之史也。
2.孔子適周,將問禮於老子。(以下略)
3.老子脩道コ,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰:「子將隱矣,彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道コ之意五千餘言而去,莫知其所終。 ? 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][9]伝説では、老子は周を去る際、水牛に乗っていたという[10]

これによると老子は、は「李」、は「耳」、は「?」(または「伯陽」[注 1])。の苦県[3](現在の河南省周口市鹿邑県[11])、視スの曲仁里という場所の出身で、の守藏室之史(書庫の記録官[3])を勤めていた。孔子紀元前551年 - 紀元前479年)がの教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた[3]。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所函谷関とも散関とも呼ばれる[3])に着くと、関所の役人である尹喜(中国語版)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい[12][13][14][15]、その後の事は誰も知らない[3]。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。)

「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる[16][17][18][19]。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える[16][20][注 2][注 3]

出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県[11])に老子を訪ねている[21]。また「苦い」県、「氏i癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる[11]。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であったの相というところが出身と書かれていたとも言う[11][22]

『史記』には続けて、4.或曰:老來子亦楚人也,著書十五篇,言道家之用,與孔子同時云。 ? 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][9]

とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える[14][15][23]


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