1911年(明治44年)には海水浴場が[1]、1912年(大正元年)には遊園地も造られるなど、レジャー施設として発展していったが、1917年大正6年の高潮災害によって破壊される[7]。中沢らは再建を働きかけたが、それまでが赤字であったことや、上述のとおり競技大会の約束が反故にされたために上層部は動かなかった。ただし、スタンドなどの設備は流出したものの、野球場としての姿は維持していたので、実業団野球などの試合にはその後も使われていた[8]。
1938年(昭和13年)に羽田飛行場の拡張用地として土地が買収され、完全に消滅した[9]。 上述の通り、陸上競技場は海浜沿いの自転車練習場を改修して新設したものである[3][10]。発足したばかりの大日本体育協会に金はなく、京浜電鉄に建設してもらった[4]。直走路の両端に半円形の曲走路を接続した類楕円形で1周は400m、走路の幅は30尺(≒9.09m)、半円部は当時の欧米の方式に準拠して、外側を高く内側を低くした2尺5寸(≒75.8cm)の傾斜を付けていた[3][5]。路面は粘土と砂を混合して固め、にがりをまいたもので、スパイクシューズで走るのに適度な硬さとした[3][4][5]。しかし、ストックホルムオリンピックの予選会当日は雨で、選手たちの足元は悪く、記録は振るわなかった[3][6]。 ストックホルムオリンピックの予選会では、100mのみセパレートコースで行われ、200m以上はオープンレーンであった[3]。セパレートコースは石灰でラインを引き、その上に杭を打ちテープを張ってレーンを区切っていた[3][4]。ロード競技(10000mとマラソン)は、羽田運動場がゴール地点に設定された[3]。フィールド競技(跳躍のみ)も開催された[11][5]。
陸上競技場
脚注[脚注の使い方]^ a b c 京急電鉄(2008)、P18。
^ 横田 1999, p. 21.
^ a b c d e f g h i 川本 1963, p. 19.
^ a b c d e 長谷川 2013, p. 66.
^ a b c d 内藤 2019, p. 48.