羽生善治
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^ 羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに山形県に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。(『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、171頁
^ 中嶋克安指導棋士は、父が病気で倒れたため奨励会を退会して家業を継ぎ、そのかたわら道場(のちの八王子将棋クラブ)を開いた。
^ 小学生将棋名人戦には3年生のときから参加し、2年連続1回戦負けの後、前年の5年生時はベスト8であった。
^ 但し、この大山の発言は両名への単なる称賛だけではなく、谷川に対しての侮蔑の意味も込められている。盤外戦を参照のこと。
^ a b 当時は、三段リーグの制度がなかった。
^ 島朗による命名。
^ これについて谷川浩司は「まず抽選をするわけですから」と述べた上で、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している。(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、16頁 ISBN 978-4796693806)。
^ 18連勝のうち10勝は前年度からの繰越し。連勝を止めたのは大山康晴。
^ 「前竜王」はタイトルに準じる称号。「棋戦 (将棋)#竜王と名人」を参照。
^ 同様の事例としては、棋聖位再挑戦時の「八段」を最後にタイトル称号・前名人・永世十段・十六世名人を名乗り、名人在位中に昇段した「九段」の段位を称することがなかった中原誠がいる。羽生以外の現役棋士では、2004年竜王挑戦時「六段」からの竜王獲得後、2023年の名人失冠で無冠(九段)になるまで18年半のタイトル保持を続けていた渡辺明がいる。
^ 第1期・第2期叡王戦では、棋戦運営の都合上、タイトル保持者もタイトル称号ではなく段位で呼称されていたため、羽生が参加した第2期では「羽生善治九段」と呼称されていた。
^ 森下は「もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか」とも述べている(『将棋マガジン』1996年6月号 日本将棋連盟、16頁)。
^ 米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていたが、3連敗の後に2勝を返しさらに9年現役をつとめる(日本将棋連盟「米長邦雄の本」)。
^ このことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102)。
^ 谷川は、第1局と第2局の間に阪神・淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、20-21頁 ISBN 978-4796693806)。
^ 第53期名人戦第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。第43期王座戦第2局の98手目、森は△6九銀からの詰み(立会人の内藤國雄曰く「1秒でわかる詰み」)を見逃して受けに回り、羽生の逆転勝ちとなった。谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれた結果、羽生の勝ちとなった(以上、「将棋マガジン」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。
^ 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(0.833)。この年度の最終戦となった対屋敷伸之戦に勝っていれば、1967年度に中原誠の記録した歴代最高勝率(0.8545、47勝8敗)に並ぶことができていた。なお、羽生のこの記録は2011年度の中村太地の勝率(0.8511、40勝7敗)に抜かれ、現在では歴代3位となる。但し、中原、中村ともに比較的低段位者と当たることの多い若手時代の記録であるのに対して、この年度の羽生は7度ものタイトル戦を戦いながらの記録である(1967年度の中原は後期の棋聖戦のみに登場、2011年度の中村はタイトル戦登場なし)。
^ 羽生の全冠独占後に『将棋マガジン』(日本将棋連盟)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司や佐藤康光の名を挙げた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
^ 相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかったため、力戦と呼ばれた。しかし、これをきっかけにプロ間で流行するようになる。
^ この後の村山の休場による4月の不戦勝を含めると8勝6敗。
^ この谷川とのプレーオフの一局は結果的に(羽生が谷川の玉を)「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞した。
^ 囲碁のタイトル戦では3連敗4連勝は、すでに何度も発生していた。
^ 前年度には、第48期王位戦七番勝負第7局で名局賞を受賞している。
^ 2005年度、第53期王座戦で佐藤(康)の挑戦を退け王座戦14連覇を果たした時点で大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録(1959年?1971年、名人13連覇)を抜いた。
^ 翌年の決勝での敗退まで、羽生は5年間をかけてこのトーナメントで24連勝している。この記録は佐藤康光評するに自身の13連勝など問題にならない(『NHK杯伝説の名勝負』p.196)、決勝戦で羽生の五連覇を阻んだ渡辺明評するに「1回負けたら終わりのトーナメントで5年で24連勝したのだから、信じられない記録です。」、「羽生さんは信じられない記録をたくさんもっているけど、その中でも一番信じられない記録といってもいいかもしれない。」(『NHK杯伝説の名勝負』p.223 より引用)とのことである。
^ 囲碁界では坂田栄男が名誉NHK杯選手権者の称号を獲得している。
^ 第2局。
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