美術大学
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オンタリオ美術デザイン大学の2011年?2012年の研究投資は320万ドルに達した[10]。4校とも幅広い科目を教えており、絵画を始めとして新しいメディア、デザインも扱う。4校ともに公立の学校で、規模が最も大きいのはオンタリオ美術デザイン大学、2番目に大きいのがエミリー・カー美術大学である。過去5年間以上にわたり、エミリー・カー美術大学の在学生・卒業生がカナダ国内のほとんどの主要な賞を獲得してきた。最近のRBC絵画コンペティションでは、オンタリオ美術デザイン大学の卒業生であるヴァネッサ・マルチーズが受賞した。オンタリオ美術デザイン大学は大学院課程の充実化に成功しており、エミリー・カー美術大学もそれに迫る勢いで大学院を整備している。ノバスコシア美術大学の大学院は長い歴史を持っている。
トロントの公立美術学校

クロード・ワトソン美術学校とカレン・カイン美術学校は、オンタリオ州トロントにある公立の美術中等教育学校である。卒業後の進路として、次のような美術系学校がある。アール・ヘイグ・セカンダリー・スクールのクロード・ワトソンプログラム、エトビコーク美術学校、ローズデール・ハイツ美術学校、ウェックスフォード美術学校、カーディナル・カーター美術アカデミー。

ブランプトンのメイフィールド・セカンダリー・スクールには地域美術プログラムがあり、公立の高等教育レベルの美術教育を行っている。
ヨーロッパ大陸の美術学校に相当する教育施設
歴史1720年頃のアカデミーにおけるヌードデッサンの様子。ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの作品。「王立アカデミーにおける会員たちの肖像」、ヨハン・ゾファニーの1771/72年の作品。

美術アカデミーの起源はイタリアに発する。1563年にフィレンツェに建てられたアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Accademia delle Arti del Disegno、通称「アカデミア」)が、ヨーロッパに初めて作られた絵画アカデミーである。このアカデミアは、トスカーナ大公コジモ1世の庇護のもとで運営されていた。王室の援助によって美術アカデミーを運営するという教育モデルは、ヨーロッパ中で広く取り入れられた。ローマ教皇は1593年、ローマにアカデミア・ディ・サン・ルカ(Accademia di San Luca)を設立し、それに続いてフランス国王は1648年に王立絵画・彫刻アカデミー(Academie de peinture et de sculpture)を作った。これは、今日まで続く芸術アカデミー(Academie des Beaux-Arts)として引き継がれている。

ドイツ帝国における最初の美術大学・アカデミーは、1662年に創設された絵画アカデミーであり、銅版画家のヨアヒム・フォン・ザンドラルトによってニュルンベルクに作られた。17世紀から18世紀後半に設立されたアカデミーでは、諸侯のもと、芸術家は教授として学生を指導した。学校が成功することで領邦の名誉が得られたのである。ヨーロッパの他の国でもアカデミーが登場し、国家の庇護のもとに運営された。1696年にベルリン、1725年にウィーン、1735年にストックホルム、1768年にロンドンで、順にアカデミーが出来た。ドイツにおける著名なアカデミーは、ドレスデン、マンハイム、デュッセルドルフ、ミュンヘンの各領邦に作られた。これらのアカデミーとは対照的に、アウクスブルク美術アカデミーは都市部に作られたが、1755年にはドイツ帝国の特権が与えられ、美術作品の制作・発表を通じて大きなカリスマ性を得るに至った。アカデミーでは学問的訓練と厳格な古典的規則の教授が行われてきたが、18世紀後半にはそういった教育方法を疑問視する反対運動が起き、美術の自由を求める声が上がった。ナザレ派に代表されるグループは、公的な美術の教義から身を引き、新しい表現方法を求めた。19世紀を通じて、アカデミーでの美術教育により確立された絵画に対抗する偉大な個人・変革者が登場した。例えばフランスでは、ドラクロワ、クールベ、そして印象派の画家たちが現れ、国立のアカデミーの外で美術を発展させようという動きを見せた。しかし、同時期には私立の美術学校も「アカデミー」と呼ばれていた(例えば、アカデミー・ジュリアン)。そこでは、国立のエコール・デ・ボザールの入学資格に満たない者が主に学んでいた。20世紀に美術教育が自由化されたため、美術アカデミーは伝統的な美術の擁護者としての役割の大部分を放棄している。
オーストリア

オーストリア最初の美術大学は、1692年に宮廷画家のペーター・シュトゥルーデルの私設アカデミーとして創設された(1725年に、ウィーン帝立・王立画家・彫刻家・建築家アカデミーとして再開した。今日のウィーン美術アカデミーの前身である)。最初の音楽大学は、1819年創立のウィーン音楽アカデミーであり、1909年に公立学校となった(ウィーン帝立・王立音楽舞台芸術アカデミー)。

オーストリアでは、以前に芸術大学だった組織はすべて総合大学になった。現在、6校の国立芸術大学があり、そのうち3校は音楽・舞台芸術に特化しており、その他3校は美術・応用美術を専門としている。また、いくつかの美術アカデミーや音楽学校が高等教育機関として存在している。

グラーツ音楽・舞台芸術大学

リンツ美術工芸大学

ザルツブルク・モーツァルテウム大学

ウィーン音楽・舞台芸術大学

ウィーン応用美術大学

ウィーン美術アカデミー

広い意味で取れば、2004年にできたニューデザイン大学(産業デザイン、グラフィックデザイン、インテリアデザイン)も芸術大学の一つと言える。
スイス

スイスでは、美術大学は応用科学大学に所属している。
スウェーデン

スウェーデンの美術大学の歴史は、18世紀前半に始まる。当時、美術を学ぶ学生は、1735年に創立されたスウェーデン王立美術大学に入学した。1844年には、職人が日曜日に通う美術学校としてスウェーデン国立美術工芸大学(コンストファック)が作られた。今日、コンストファックは学士課程と修士課程を持っており、陶、ガラス、テキスタイル、金属などの教育を行っている。

また、ヨーテボリ大学、マルメ大学、ウメオ大学に付属する美術大学もある。
ドイツ

ドイツでは、芸術大学は総合大学と同じく、芸術・学問領域の博士号を授与する権利を持っていることが一般的である[11]。ドイツ高等教育法で規定される芸術大学は、教育と研究を通じた芸術・学問の発展を担っており、とりわけ芸術家の育成機関として機能している。

芸術大学は、若者の芸術的・学問的な才能を育んでいる。入学するためには、特別な芸術的適性を持っていることが求められており、作品のサンプルを提出し、入学試験に合格する必要がある。教育の根本にある価値観として、学生たちは固有の芸術作品と芸術家としてのアイデンティティを自ら見出さねばならない、という想定がある。なぜなら、技術、方法、研究方針などは教えることができても、芸術それ自体は教えることができないからである。

教授の任命は、教員の提案に基づき、州政府を通じて行われる。総合大学とは異なり、芸術大学で教授となるために博士号やハビリタチオンは必要とされない。その代わりに、芸術家として卓越していることを示すライフワークが必要であり、それが専門家たちの間で認められなければならない。

学科は、専門の特別な要求に応じて個別に分かれている場合と、学際的に相互連携している場合がある。一部の学科では、個人授業、小グループの授業、そして教授の授業を組み合わせることができる。また他の学科では、自分の芸術作品のために、あるいは自分の勉強を組織するために、与えられたコースを自由に組み合わせることができる。

美術大学では、独立したアーティストになるためだけでなく、メディア、デザイン、ファッション、舞台芸術などの領域で活躍するための教育も行われている。他にも、美術作品の保存修復や美術教育を教える学科もある。

入学するためには、入学手続きとアビトゥーアや大学入学資格の枠の中で、特別な芸術的才能を示すことが必要である。非常に卓越した芸術的才能が認められる場合には、大学入学資格が免除されることがある。

ドイツの芸術大学で得られる学位には様々な種類がある。個人的なディプロマ(例:音楽教育ディプロマ)や非個人的なディプロマ(例:視覚芸術ディプロマ)の他に、学士、修士、博士レベルの学位が内容に応じて複数存在する。例えば、Graduierter Kunstler、Akademiebrief、Meisterschuler、Buhnenreife、Konzertreifeなどである。
フランス

パリ国立高等美術学校は、グランゼコールの地位を得ている。フランスでは、伝統的な美術教育機関であるエコール・デ・ボザールと並んで、1968年の学生運動の結果、大学に視覚芸術(Arts plastiques)学部が作られた。


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