美空ひばり
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^ ただし、ひばりには既に1953年1月第3回の時点で、出演のオファーがかけられていたが、第3回は正月興行、その次の1953年12月第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドから出演を見送られた経緯があり、NHKにとっては3度目の「ラブコール」が実った形となった。
^ 当時、那覇を含む沖縄は日本本土から分離され、琉球政府を通じたアメリカ合衆国による沖縄統治が行われていた。
^ 元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に北見沢淳が歌った曲であった。
^ 岡田は1964年に東映京都撮影所所長に就任し、興行不振の続く時代劇から任侠映画に徐々に切り替えを行う(【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で、『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)、NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した)。ひばり主演の時代劇は安定した人気を保っていたが、1966年頃からひばり作品まで当たらなくなるほど深刻な状況に陥った(立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、41頁)。やむを得ず、岡田がひばりに直接「ひばりちゃん、悪いがもう(ひばりちゃんの)映画は撮らんよ」と伝えた。ひばりは「これで私には映画の話は来なくなるわね」と寂しい顔をされ、岡田を困惑させた (『映画主義者 深作欣二』、41頁)。1963年12月26日、東映との専属契約を解除(資料文献:西川2021, pp154 - 179)。映画を通じての付き合いは無くなったが、岡田とひばりの交遊は生涯にわたって続き、ひばりは1989年に病状が悪化し、順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院したが、これは岡田の広島高等学校時代からの親友で(サンケイスポーツ、1975年5月21日号、15頁、『沢島忠全仕事』、197、478?479頁)、同院の石井昌三(元順天堂堂主、理事長)の手引きによるもの(脇田巧彦著『特ダネ人脈 記者50年』2016年、埼玉新聞社、203頁)。岡田も系列の順天堂大学医学部附属練馬病院で亡くなっている。
^ 哲也は、1957年、小野透の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの東映映画に出演、主演を務めたこともあったが1962年に引退。元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組益田組(組長は益田佳於)の舎弟頭となっていた。翌1963年には賭博幇助容疑、賭博開帳図利等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。
^ 事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという。
^ ただし、1979年の第30回には藤山一郎と特別出演、『ひばりのマドロスさん』、『リンゴ追分』、『人生一路』の3曲をメドレー形式で歌った。
^ 美空ひばりは当時12歳頃。主人公の男女がのど自慢大会を見物をしていたシーンでおよそ40秒出演していて、「涙の紅バラ」を歌っていた。映画会社が作品完成後倒産してしまい、行方不明であったが、神戸市にある神戸映画資料館が約40年前にフィルムを購入しており、文化庁の助成により内容を精査していたところ、2016年1月に出演が確認された。
^ 1974年第25回島倉千代子フランク永井がいずれも18回目の出場を果たし、更新。
^ ひばりのマドロスさん(2回目)・リンゴ追分人生一路のメドレー。

出典^ “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
^ a b 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社(原著2009-3-30)。ISBN 9784634013025。 
^ 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』晩聲社、1998年、16-17頁
^ 美空ひばり公式完全データブック 角川書店 2011.6 ISBN 4-04-874203-5 p.16
^ 時事ドットコム
^ 想田正『美空ひばりという生き方』青弓社、2009年、144頁。ISBN 978-4787272706。 
^ 岡田茂「〈ドキュメント東映全史〉 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂」『クロニクル東映 1947―1991』 2巻、東映、1992年、2頁。 
^ a b c 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、103-106頁。ISBN 4879320161。 
^ a b 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年、109-110頁。ISBN 4163768106。 
^ a b 南部僑一郎「連載映画千一夜(8)新しい年のホープ」『キネマ旬報』1968年2月下旬号、キネマ旬報社、68-69頁。 
^ a b 東映株式会社映像事業部(企画・編集)「品田雄吉の東映映画史 第一期時代劇黄金時代 昭和29年?昭和31年 スター育成システムを確立した台頭期」『東映映画三十年 あの日、あの時、あの映画』東映、1981年、58-59頁。 
^ a b c 脇田巧彦 (2011年11月2日). “最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(40) ひばり引き抜きに破格の条件”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 16 
^ 脇田巧彦『特ダネ人脈 記者50年』埼玉新聞社、2016年、192-194頁。ISBN 9784878894503。 
^ 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、47頁。 「本誌特別インタビュー 東映(株)高岩淡専務取締役 『ビデオやテレビも視野に入れ総合戦略で変革の時代に対応』」『映画時報』1993年3月号、映画時報社、11頁。 「東映(株)代表取締役社長・高岩淡 『映像3部門を映像本部に合体』...」『映画時報』1997年5月号、映画時報社、5頁。 、山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂
^ a b c 岡田茂「〈ドキュメント東映全史〉 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂 /ドキュメント東映全史1954(昭和29年)東映娯楽版スタート新スター錦之助・千代之介ブームに沸く」『クロニクル東映 1947 - 1991』 2巻、東映、1992年、1-4,18頁。 
^ a b c d 脇田巧彦 (2011年11月3日). “最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(41) ひばり結婚離婚、身内に不祥事”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 14 

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